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2014年03月09日

やまとうた(30)− 雪のうちに春はきにけりうぐひすの

 
 snowdrop

 (旧暦2月9日)

  二条のきさきの春のはじめの御うた
 雪のうちに春はきにけりうぐひすの こほれる泪いまやとくらむ
                                                       古今集  巻一 春歌上 4


 半年あまり、文章を書く気もおこらず、「板橋村だより」をほっぽらかしにしておりましたが、プレッシャーのかかる仕事もひと段落し、啓蟄(3月6日ごろ)も過ぎたので、そろそろ、穴から出て行きましょうかな。

 昨年の今頃は、日本海を低気圧が通過して猛烈な南風が吹き荒れる日がよくありましたが、今年も異常な大雪が2週連続で関東地方を大混乱に陥れ、いやはや、このところの春の到来も、なかなかやっかいなものではごわさんか。

 イギリスでも3月には、時を定めず猛烈な風が吹いて、それを“ March winds”と呼んでいると、以前、「板橋村だより」に書きましたが、長い冬が次第に遠のいていく気配が感じられるのもこの時期で、春を告げる花として知られるsnowdropというヒガンバナ科ガランサス属の野生の花が山辺に咲き出します。
 

  Like an army defeated 

  The snow hath retreated,
  And now doth fare ill
  On the top of the bare hill;
  The Plowboy is whooping- anon-anon:
  There's joy in the mountains; 

  There's life in the fountains; 

  Small clouds are sailing,
  Blue sky prevailing; 

  The rain is over and gone!
  —William Wordsworth : ‘Written in March’

 

  敗北した軍隊のように
  雪は退き去って、
  今は裸の丘の頂きに
  不運をかこっている。
  農夫の子どもはときどき喚声ををあげる。
  山には喜びがあり、
  泉には生気があり、
  小さな雲はなめらかに流れ、
  青空は広がり、
  雨は止んで去っていく。
  ウイリアム・ワーズワース 「3月に寄せて」
  (嘉穂のフーケモン 拙訳)


  さて、冒頭の歌を詠んだ第56代清和天皇(在位858〜876)の女御、二条后藤原高子(たかいこ)は多情をもって世に知られていた人でした。

 face02 そのひとつは、清和天皇崩御の後の寛平八年(896)、自らが建立した東光寺の座主善祐と密通したとされて后位を剥奪されたという事件です。

 
  寛平八年 
  九月廿二日 陽成太上天皇之母儀皇太后藤原高子、與東光寺善祐法師、竊交通云云。仍廢后位。至于善祐法師、配流伊豆講師。
  『扶桑略記』 第廿二

  寛平八年丙辰
  廿二日庚子、停廢皇大后藤原朝臣高子。清和后、陽成院母儀。事秘不知。
  廿三日辛丑、廢皇大后之由、申諸社。按、以疑通東光寺座主善祐事。天慶六年、復號。
  『日本紀略』 前篇二十 宇多天皇

 高子五十五歳の年に当たるゆえに老齢に過ぎるのではないかという説もあるそうですが、そこは男女の仲、プラトニックラブというものもあり、また、王朝の頃は老女の恋愛は珍しくはなかったとのこと。真相は闇の中ということで・・・。

 face03ふたつには、伊勢物語に記された、入内前における在原業平との艶聞です。
 
 
  第三段 ひじき藻
  むかし、をとこありけり。懸想じける女のもとに、ひじきもいふ物をやるとて、

 
  
  思ひあらば葎(むぐら:雑草)の宿に寝もしなん ひじきものには袖をしつゝも


 
  二条の后のまだ帝にも仕うまつりたまはで、たゞ人にておはしましける時のこと也。


 

 
  第五段 関守
  むかし、をとこありけり。東の五条わたりにいと忍びていきけり。みそかなる所なれば、門よりもえ入らで、童べの踏みあけたる築地のくづれより通ひけり。人しげくもあらねど、たびかさなりければ、あるじききつけて、その通ひ路に、夜ごと人をすゑてまもらせければ、いけどもえ逢はで帰りけり。さてよめる。


 
  人知れぬわが通ひ路の関守は よひよひごとにうちも寝ななむ



とよめりければ、いといたう心やみけり。あるじゆるしてけり。


 
  二条の后に忍びてまゐりけるを、世の聞こえありければ、せうとたちのまもらせ給ひけるとぞ。


 
  二条の后のもとに、人目を忍んで参上していたのを、世間の評判というものがあったので、后の兄君達が、人々に守らせたということである。


 


 
  第六段 芥川
  むかし、をとこありけり。女のえ得まじかりけるを、年を経てよばひわたりけるを、からうじて盗み出でて、いと暗きに来けり。芥川といふ河を率ていきければ、草の上にをきたりける露を、「かれは何ぞ」となんおとこに問ひける。ゆくさき多く夜もふけにければ、鬼ある所とも知らで、神さへいといみじう鳴り、雨もいたう降りければ、あばらなる蔵に、女をば奥にをし入れて、おとこ、弓胡籙(ゆみやなぐひ)を負ひて戸口に居り、はや夜も明けなんと思つゝゐたりけるに、鬼はや一口に食ひてけり。「あなや」といひけれど、神鳴るさはぎにえ聞かざりけり。やうやう夜も明けゆくに、見れば、率て来し女もなし。足ずりをして泣けどもかひなし。


 
  白玉かなにぞと人の問ひし時 露とこたへて消えなましものを

 
  これは、二条の后のいとこの女御の御もとに、仕うまつるやうにてゐたまへりけるを、かたちのいとめでたくおはしければ、盗みて負ひて出でたりけるを、御兄人堀河の大臣、太郎国経の大納言、まだ下らうにて内へまいりたまふに、いみじう泣く人あるを聞きつけて、とゞめてとりかへしたまうてけり。それを、かく鬼とはいふなりけり。まだいと若うて、后のたゞにおはしける時とや。


 
  これは二条の后(高子)が、従姉の女御のお側にお仕えするというかたちで住んでおられたのを、容貌が全く美しくおありになられたので、業平が密かに連れ出して、背負いて逃げたのを、高子の兄君の堀河の大臣基経と太郎国経の大納言が、まだその頃は、官位がそれほどでもなく、たまたま宮中に参内される折、ひどく泣いている人がいるのを聞きつけて、牛車を止めて妹の高子を取り返されたのである。それを鬼と言うのであった。二条の后がまだ若く、ふつうの人であられた時のとこだとか。


 

  伊勢物語各段の附記は、いづれも後人の書入れで、注釈が本文に混じったものと推定されています。まあ、その時代には、在原業平と二条后についてこういう噂があったというくらいのことで、当時の人が、二条后を業平と契りを結ぶにふさわしい高貴で華麗な女性と見ていたであろうとは、一昨年に鬼籍に入られた丸谷才一氏の評です。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 15:52Comments(0)やまとうた