2011年12月23日
奥の細道、いなかの小道(13)−武隈/宮城野
仙台城趾 伊達政宗公銅像
(旧暦11月29日)
櫻より松は二木を三月越シ
一 四日 雨少止。辰ノ尅、白石ヲ立。折ゝ日ノ光見ル。岩沼入口ノ左ノ方ニ竹駒明神ト云有リ。ソノ別当ノ寺ノ後ニ武隈ノ松有。竹がきヲシテ有。ソノ辺、侍やしき也。古市源七殿住所也。
『曽良随行日記』
芭蕉翁一行が訪れた「武隈の松」は、仙臺藩領岩沼鄕の武家屋敷町にありました。阿武隈川の河口に位置する岩沼鄕は、かつては武隈(たけくま)と呼ばれ、古内氏八千五十石七升(八百五貫七文)の城下町であり、承和九年(842)に勧請された竹駒神社の門前町、奥州街道と陸前浜街道の分岐点の宿場町として栄えました。
芭蕉翁一行が訪れた頃には、岩沼鄕は仙臺藩領屈指の宿場町であり、北町、中町、南町の各町に治安・交通・運輸を所管する検断(大庄屋)が設置されていました。
さてこの松は、宮内卿藤原元良(善)が陸奥守に赴任した平安前期に館の前に植えた松で、その後野火によって焼け、平安中期の武将源満仲(912?〜997)が陸奥守として赴任したときに植え、また無くなってしまったので、藤原道長の側近でもあり、和泉式部の夫であった橘道貞(?〜1016)が陸奥守に赴任した時に植えた松だと伝えられています。
みちのくにの守にまかり下れりけるにたけくまの松の枯れて侍りけるを見て小松を植ゑつがせ侍りて任果てゝ後又同じくににまかりなりて彼のさきの任に植ゑし松を見侍りて
うゑし時ちぎりやしけむたけくまの 松をふたたびあひ見つるかな
(宇恵し登きち起里やしけ無多計久満の松をふたたびあ飛見つ留嘉那)
後撰集 巻17 雑三-1241 藤原元善朝臣
平安末期の歌人藤原清輔(1104〜1177)が著した歌学書『奥義抄』には、
武隈の松はいづれのよゝりありけるものともしらぬ人は、うゑしときとよまれたれば、おぼつかなくもや思ふとて書きいでゝ侍るなり、此松は昔よりあるにはあらず。宮内卿藤原元善といひける人の任に、たちの前にはじめてうゑたる松なり。みちのくにの館はたけくまといふところにあり。
この人ふたゝびかの國になりて後のたびよめる歌なり。
たけくまのはなはの松ともよめり。
重之歌に云、
たけくまのはなにたてるまつだにも わがごとひとりありとやはきく
たけくまのはなはとて、山のさしいでたる所のあるなりとぞ、ちかくみたる人はまうしし。この松野火にやけにければ、源満仲が任に又うう。其後又うせたるを橘道貞が任にうう。其後孝義きりて橋につくり、のちたえにけり。うたてかりける人なり。なくともよむべし。
と記してあります。
「武隈の松」は枯れたり、陸奥守藤原孝義により名取川の橋として伐られたりしましたが、そのたびに幹が根本付近から二股に分かれる松が植え継がれてきたようです。そして芭蕉が見たのは、五代目の松であろうと云われ、現在の松は文久二年(1862)に暴風で倒木した後に植えられた七代目の松と云うことです。
この「武隈の松」は陸奥の歌枕の中でもその詠歌の多いことでは抜きんでており、能因法師、西行法師をはじめ多くの歌人に詠まれています。
陸奥守にてくだり侍りける時、三条太政大臣の餞し侍りければ、よみ侍りける
たけくまの松を見つつやなぐさめん 君がちとせの影にならひて
拾遺集 巻6 別-338 藤原為頼
則光朝臣のもとにみちのくにに下りて武隈の松をよみ侍りける
武隈の松はふた木を都人 いかがと問はばみきとこたへむ
(堂希久万の松ハ二木越美屋古人い可ゝと問はゝみ起とこたへ舞)
後拾遺集 巻18 雑四-1041 橘季通
みちのくにに再び下りて後のたび、たけくまの松も侍らざりければよみ侍りける
武隈の松はこの度跡もなし ちとせを経てや我は来つらむ
後拾遺集 巻18 雑四-1042 能因法師
橘季通、陸奥に下りて武隈の松を歌によみ侍りけるに、ふた木の松を人とはばみきと答へんなどよみて侍りけるを、つてにききてよみ侍りける
武隈の松は二木をみ木といふは よくよめるにはあらぬなるべし
後拾遺集 巻20 雑六-1199 僧正深覚
みちのくにほど遠ければたけくまの 松まつ程ぞ久しかりける
実方集 藤原実方
武隈の松も昔になりたりけれども、跡をだにとて見に罷りて詠みける
枯れにける松なき跡の武隈は みきと言ひても甲斐なかるべし
山家集 羈旅歌 西行法師
人しれずおもへばくるしたけくまの 松とはまたじまてばすべなし
金槐和歌集 恋-421 源実朝
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