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2008年01月21日

おくの細道、いなかの小道(4)-那須

 おくの細道、いなかの小道(4)-那須

 Statue of Bashō at Chūsonji, Hiraizumi, Iwate taken by Kaho-No-Fuukemon.

 (旧暦 12月14日)

 久女忌  大正~昭和初期の俳人杉田久女の昭和21年(1946)年の忌日。
 柳原極堂(1867~1957)から俳誌『ほとゝぎす』を引き継いだ高濱虚子(1874~1959)に師事し、『ほとゝぎす』同人として活躍するも、昭和11年(1936)『ほとゝぎす』10月号に、突如として同人除名の社告を掲載され、悲嘆のうちに精神を病んで太宰府の精神病院で亡くなった「清艶高華」の女流俳人。
        紫陽花に 秋冷いたる信濃かな  
        夕顔や ひらきかかりて襞深く
        しろしろと 花びらそりぬ月の菊



 かさねとは 八重撫子(なでしこ)の 名成(なる)べし  曾良

 四月二日、日光三大名瀑の1つに数えられている裏見の滝および景勝地の含満ヶ淵(大谷川が男体山から流れ出た溶岩を長い年月をかけて浸食した渓谷)を巡った芭蕉一行は、日光をあとにして廿丁(2180m)ばかり下って左に折れ、大谷川を渡ってせノ尾(瀬尾)、川室という会津西街道に沿った村を経て右に折れ、大渡という日光北街道の馬次のある宿場町に至ります。

 大渡より鬼怒川を渡って船入(船生、ふにゅう)を通り、雷雨の激しい中、玉入(たまにゅう)という日光北街道の宿場に到着しますが、玉入(たまにゅう)の宿がひどかったので、無理を言って名主の家に一夜の宿を借りました。
 
 翌四月三日は快晴、芭蕉一行は辰上剋(午前7時半ころ)玉入(たまにゅう)を立ち、鷹内、矢板、沢村、大田原を経て、同日、黒羽根の余瀬にある翠桃鹿子畑豊明宅へ到着しました。
 
 日光北街道は、江戸初期に整備された日光道中今市宿より、奥州道中大田原宿までの11里31町の短い脇街道です。
 古来、この街道が通る那須野は小道が多く、旅の難所だったようです。まさしく、いなかの小道だったのでしょう。

 道多き なすの御狩の矢さけびに のがれぬ鹿のこゑぞ聞ゆる 

 この古歌は、『奥細道菅菰抄』に紹介されており、鎌倉後期の延慶3年(1310)頃に成立した私撰和歌集『夫木和歌抄(ふぼくわかしょう)』に収められた、正四位下左京権大夫藤原信実朝臣(1177?~1265?)の作ですが、実際に藤原信実がみちのくに下って詠んだ歌ではないでしょう。
 野中の見知らぬ農夫に馬を借りた一行のあとを、小さなわらべ二人がついてきますが、一人は小さな娘で、名を「かさね」と云いました。

 「かさね」という可愛らしい名前だから、花に例えるならば、八重撫子の名であろうと曾良は吟じていますが、後に『奥細道菅菰抄』を著し、実際に芭蕉の足跡をほぼ実地に辿った蓑笠庵梨一(1714~1783)の注によれば、

 按ずるに、世に云、祐天上人(1637~1718)の化度有し、鬼怒川の与右衛門が妻、かさねと云しは、或は此小姫の成長したる後か。大概時代相応にて、きぬ川も亦此あたり近し。

 とあり、ご丁寧に、小姫「かさね」の考証にまで及んでいます。

 また、芭蕉一行が訪れようとしていた黒羽根は、室町期から戦国期にかけては下野国で那須氏を中心とした武家連合組織であった那須七騎(那須七党)のうちの重臣大関氏の領地で、当時は下野黒羽藩18,000石第6代藩主大関増恒(在職1688~1738)の時代でした。

 黒羽根では、その大関氏の館代(館の留守居)浄法寺図書高勝、俳号桃雪の弟である鹿子畑豊明、俳号翠桃の屋敷に投宿していますが、前年の元禄元年(1688)に翠桃が江戸勤番中に、芭蕉や曾良と交際があったようです。

 翌四月四日、翠桃の兄である黒羽館代浄法寺図書高勝のもとに招かれ、1日郊外に遊んで、犬追物の跡を見学したり、那須の篠原をわけて玉藻の前の古墳を訪れ、さらに平家物語の那須与一が扇の的を射たときに祈念した氏神へも訪れています。

 ひとひ郊外に逍遙して、犬追物の跡を一見し、那須の篠原をわけて、玉藻の前の古墳をとふ。それより八幡宮に詣。与市扇の的を射し時、「別しては我国氏神正八まん」とちかひしも、此神社にて侍と聞ば、感應殊(ことに)しきりに覚えらる。暮れば桃翠宅に帰る。
 修験光明寺と云有。そこにまねかれて、行者堂を拝す。
 
 夏山に 足駄(あしだ)を拝む首途(かどで)哉


 ほな、ぼちぼちいきまひょか。


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Posted by 嘉穂のフーケモン at 21:03│Comments(0)おくの細道、いなかの小道
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