2005年06月04日
やまとうた(10)−言問はぬ木すらあじさゐ諸茅(もろち)らが
あじさゐ 学名:Hydrangea macrophylla
(旧暦 4月28日)
大伴宿禰家持が久迩の京より坂上大嬢に贈れる歌五首
言問はぬ木すら味狭藍(あじさゐ)諸茅(もろち)等が 練(ねり)の村戸にあざむかえけり (大伴家持 巻四 773)
物を言わない木でさえ、色の変わりやすい紫陽花や諸茅(もろち)などの、一筋縄では行かない心に欺かれたと云うことです。(まして人間である私は、変わりやすいあなたの心に欺かれてとまどっています。)
「諸茅(もろち)」は何か変化しやすい植物と思われ、「練の村戸」はよく練られた心、転じて屈折した一筋縄では行かない心をさすようです。
一応恨み言を述べていますが、坂上大嬢は後に家持の正妻になっています。
万葉集には紫陽花を詠んだ歌は2首しかありません。 続きを読む
2005年04月27日
やまとうた(9)−橘の蔭踏む道の八衢(やちまた)に
橘 学名:Citrus tachibana
(旧暦 3月19日)
三方沙弥(みかたのさみ)、園臣生羽(そののおみいくは)の女(むすめ)を娶(めと)りて、幾時(いくだ)も経ねば、病に臥して作る歌三首
橘の蔭踏む道の八衢(やちまた)に 物をぞ思ふ妹(いも)に逢はずて (巻2 125)
橘の木蔭を踏んで行く道が八方に分かれているように、どうしたらいいのかと思い乱れている。あなたに逢うことができずに。
万葉の男性は、ことのほか女性への想いを素直に詠んでいるようです。彼らも思ふひとに逢いたい気持ちをいろいろな歌で表現しました。
あの娘(ひと)に逢えないので落ち着かない、どうしたら良いのやら・・・ 続きを読む
2005年04月08日
やまとうた(8)−しき嶋のやまとこゝろを人とはゝ
本居宣長 六十一歳自画自賛像(本居宣長記念館蔵)
(旧暦 2月30日)
虚子忌、椿寿忌 俳人・小説家の高濱虚子の昭和34年(1959)の忌日。椿を愛し、法名を虚子庵高吟椿寿居士ということから、椿寿忌とも呼ばれる。
これは宣長六十一寛政の二とせといふ年の秋八月に手つからうつしたるおのかゝたなり
筆のついてに
しき嶋のやまとこゝろを人とはゝ 朝日ににほふ山さくら花
帝都東京の桜も満開となり、都内の桜の名所は多くの人々でにぎわっていますが、桜の花ほど古来日本人に愛された花もないでしょう。
しかしもともとは、中国から渡来した梅の方が重んじられていたようです。
奈良時代は中国文化を第一とする風潮であったため、中国で重んじられている梅が尊重されたようですが、平安時代中期に鑑賞する花としての桜の美しさが認められ、地位が向上してきました。
以来、桜は様々な歌に読み込まれてきましたが、本居宣長のこの歌ほど、先の大戦で戦争に利用された歌はないでしょう。 続きを読む
2005年03月06日
やまとうた(7)-我が園に梅の花散るひさかたの
尾形光琳 紅白梅図屏風(白梅図)
(旧暦 1月26日)
菊池寛忌 作家の菊池寛の昭和23年(1948)の命日
太宰帥(だざいのそち)大伴の卿(きみ)の宅(いへ)に宴してよめる梅の花の歌三十二首、また序、天平二年正月の十三日、師の老(おきな)の宅(いへ)に萃(つど)ひて、宴会を申(の)ぶ。・・・・・
我が園に梅の花散るひさかたの
天(あめ)より雪の流れ来るかも (巻5 822) 大伴旅人
中納言大伴旅人(665〜731)が帥(そち)として大宰府に赴任したのは、神亀4年(727)冬、62歳の頃のことでした。当時10歳の少年だった家持も父に同行したものと思われ、天平2年(730)の暮れ頃、佐保(現在の奈良市法華寺町・法蓮町一帯)の自宅に戻るまでの約3年余りを九州大宰府の地で過ごしました 続きを読む
2005年02月16日
やまとうた(6)-津の国の難波の春は夢なれや
難波津之圖
(旧暦 1月 8日)
題しらず
津の国の難波の春は夢なれや 蘆のかれ葉に風わたるなり
(西行 新古今和歌集625)
文治2年(1186)、東大寺再建をめざす大勧進・俊乗坊重源(1121〜1206)より砂金勧進を依頼され、再び東国へ旅立った西行(1118〜1190)は、途中、鎌倉で源頼朝(1147〜1199)と会見しました。
奈良東大寺は、天平15年(745)、聖武天皇の勅願によって建立された総国分寺ですが、6年前の治承4年(1180)12月、東大寺が源氏に荷担したとして平清盛の5男、平重衡(1157〜1185)により焼き払われていました。
しかし、後白河法皇(1127〜1192)により俊乗坊重源(重源上人)が東大寺再建の大勧進に抜擢されていました。 続きを読む
2005年01月26日
やまとうた(5)−八千種(やちくさ)の花は移ろふ常盤なる
金沢兼六園の根上松
(旧暦 12月17日)
二月の某日(それのひ)、式武大輔(のりのつかさのおほきすけ)中臣清麿朝臣が宅にて、宴する歌十首(とを)
八千種(やちくさ)の花は移ろふ常盤(ときは)なる 松のさ枝を我れは結ばな (巻20−4501)
右の一首は、右中弁大伴宿禰家持
もろもろの花は色あせてしまいます。いつまでも色あせない松の枝を私たちは結びましょう。
天平宝字2年(758)2月、家持の母の従兄弟にあたる中臣清麻呂(なかとみのきよまろ)(702〜788)の邸宅で行われた宴席での歌ですが、当時、松の枝を結ぶことで、幸せを祈る風習があったようです。 続きを読む
2005年01月07日
やまとうた(4)- 君がため春の野にいでて若菜つむ
春の七草 「芹、なづな、御行、はくべら、仏座、すずな、すずしろ」
(旧暦 11月27日)
人日の節句(七草の節句)
仁和のみかど(第58代光孝天皇)、みこにおましましけるに、人に若菜たまひける御うた
君がため春の野にいでて若菜つむ わが衣手に雪はふりつつ
(古今集 巻1 春上 21)
あきずしま大和の国には、いにしえから年の始めに雪の間から芽を出した若菜を摘む、「若菜摘み」という風習がありました。
平安時代には、中国の年中行事で、人日(じんじつ)の節句に作られる「七種菜羹〔ななしゅさいのかん〕(7種類の菜が入った吸い物)」の影響を受けて、7種類の穀物で使った塩味の利いた「七種粥」が食べられようになったとのことです。
この「七種粥」は「若菜摘み」と結びつき、7種類の若菜を入れた「七草粥」になったと考えられています。 続きを読む
2005年01月01日
やまとうた(3)-我が君は千代に八千代にさざれ石の
京都賀茂御祖神社のさざれ石
さざれ石は、もともと小さな石の意味であるが、長い年月をかけて小石の欠片の隙間を炭酸カルシウム(CaCO3)や水酸化鉄が埋めることによって、1つの大きな岩の塊に変化したものも指す。
(旧暦11月21日)
題しらず 読人しらず
我が君は千代に八千代にさざれ石の 巌となりて苔のむすまで
(古今集 巻7 賀 343)
May our lord endure for a thousand, eight thousand long generations-may he live until pebbles grow into mossy boulders.
(Translated by Helen Craig McCullough)
帝都東京は大晦日にも雪が降り、昭和58年以来21年ぶりの大雪で、交通機関その他にも大きな影響を与えましたが、昭和80年(平成17年)の元旦は、晴天なので、まあ、なんとかなるでせう。 続きを読む
2004年12月21日
やまとうた(2)-秋はいぬ 風に木の葉は散りはてて
鎌倉右大臣実朝
(旧暦11月10日)
秋はいぬ 風に木の葉は散りはてて 山さびしかる冬は来にけり
(鎌倉右大臣 続古今和歌集545)
建久3年(1192)、征夷大将軍源頼朝の次男として生まれた後の鎌倉右大臣源実朝は、8歳のときに父頼朝を亡くし、家督を継いだ長兄頼家も北条氏に実権を奪われ、伊豆に幽閉された後に惨殺、12歳で3代将軍となりました。
右大臣実朝は、歌に秀でた才能を発揮し、家集『金槐和歌集』が残されています。 続きを読む
2004年12月11日
やまとうた(1)-落ちて行く 身を知りながら紅葉ばの
和宮親子内親王(1846〜1877)
(旧暦10月30日)
落ちて行く 身を知りながら紅葉ばの 人なつかしく こがれこそすれ
第120代仁孝天皇の第8皇女で、第121代孝明天皇(明治天皇の父)の異母妹の和宮親子(ちかこ)内親王(1846〜1877)が、14代将軍徳川家茂(いえもち)に降嫁した際、中山道を江戸へと下向する途上で詠んだ歌とされています。 続きを読む