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2008年10月06日

やまとうた(22)-夕されば 野邊の秋風身にしみて (1)

 やまとうた(22)-夕されば 野邊の秋風身にしみて (1)

 キキョウ科 キキョウ by 草花写真館

 (旧暦  9月 8日)

 百首歌奉りける時、秋歌とてよめる
                                   皇太后宮大夫俊成
 夕されば 野邊の秋風身にしみて うづらなくなり深草の里 (千載集 259)


 千載集を代表する平安末期の歌人藤原俊成(1114~1204)の秀作ですが、この歌に難癖をつけた東大寺の僧、俊恵法師(1113~1191?)の歌評の方が正当視されていることにお怒りになっている方もいらっしゃるようです。

 方丈記で有名な鴨長明(1156~1216)は、賀茂御祖(かもみおや)神社の神事を統率する鴨長継の次男として生まれ、俊恵の門下に学んで歌人としても活躍しましたが、その歌論書『無名抄』に「俊成自讃歌事」という和歌に関する評論を残しています。

 「俊成自讃歌事」
 俊恵云(いはく)、五條三位入道の許(もと)にまうでたりしついでに、御詠の中にはいづれをかすぐれたりとおぼす。人はよそにてやうやうに定(さだめ)侍れど、それをばもちゐ侍べからず。まさしくうけたまはらむと思(おもふ)ときこえしかば、

  夕されば 野邊の秋風身にしみて うづらなくなり深草の里

これをなむ身にとりてのおもての歌と思給ふるといはれしを、俊恵又云、世にあまねく人の申侍るは、

  面影に 花のすがたをさきだてて いくへこえきぬ峯の白雲

是をすぐれたる様に申侍はいかにときこゆれば、いさよそにはさもやさだめ侍らむ、しり給はず。尚みづからはさきの歌にはいひくらぶべからずとぞ侍りしとかたりて、これをうちうちに申しは、
   俊恵難俊成秀歌事 此詞イ本無之
彼の歌は身にしみてというこしの句、いみじう無念におぼゆるなり。これほどになりぬる歌は、けいきをいひながして、ただそらに身にしみけむかしとおもはせたるこそ心にくくもいうにも侍れ。いみじくいひもてゆきて歌の詮とすべきふしをさはさはとあらはしたれば、むげにことあさくなりぬるなりとぞ。其次にわが歌の中には
俊恵歌

  三吉野の 山かきくもり雪ふれば 麓の里はうちしぐれつつ

是をなむかのたぐひにせむと思給ふる。もし世の末におぼつかなくいふ人もあらば、かくこそいひしかとかたり侍べしとぞ。
 この解釈は私「嘉穂のフーケモン」ごときが云々するのではなく、かの樺山伯爵家の孫娘として生まれ、日本の美についての随筆を多く著した正統派セレブ白洲正子(1910~1998)の解釈をお借りしましょうぞ。

 『無名抄』には、俊成についての興味深い逸話がのっている。
 ある時、源俊頼の子俊恵法師が、俊成のどの歌が一番すぐれているか、直接訊いてみたことがある。すると言下にこう答えたという。


  夕されば 野辺の秋風身にしみて うづら鳴くなり深草の里

 俊成三十七歳の時の作である。自分ではこれが一番いいと思うといったが、俊恵は承知せず、世間では左の歌を褒めている。それは何故かと重ねて問うた。

  面影に 花の姿を先立てて 幾重越え来ぬ峰の白雲      (新勅撰集巻一)

 ところが俊成は、世間がどう思おうと、自分の知ったことではない。「夕されば」の歌に比べれば、物の数ではないといい、ただあの歌は、「身にしみて」という中心の歌詞が、何としても無念である。秋風の吹く野辺を、ありのままに言い流して、さぞ身にしみたであろうと、人に思わせてこそ「心にくく、優にも侍れ」。自分の気持を説明しすぎて、底の浅いものになってしまったと、大そう悔やんだと伝えている。
 
 このことは注意して聞くべき至言だと思う。自作の歌に対する俊成のきびしい態度を示すだけでなく、散文を書く場合にも大切なことだからである。もし幽玄が「詞には現れぬ余情、姿には見えぬ景気」であるならば、俊成の歌の根底を流れているのは、幽玄の思想にほかならない。まさしくそれは霧の絶えまに見える秋山の遠景であり、紅葉の美しさは、見る人の想像に任せるということだ。

 私は光琳が描いた「龍田川」のうちわ絵を思い出す。例の業平の「からくれなゐに水くくるとは」を本歌にしているが、緑の山の稜線と、水の流れを描いた上に、もみじがひとひら散っており、その一枚によって、全山火と燃える紅葉の美しさを表現する。何という大胆な構図、卓越した趣向であることか。それらはすべて和歌の思想に出ているのを思う時、……私は新古今の歌人たちを讃えたいのである。

 白洲正子『花にもの思う春』


つづく

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