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2005年02月22日

書(3)-顔真卿(2)-『祭姪文稿』(さいてつぶんこう)

 書(3)-顔真卿(2)-『祭姪文稿』(さいてつぶんこう)

 維乾元元年歲次戊戌九月庚 
 午朔三日壬申從父第十三叔銀青光祿 
 夫使持節蒲州諸軍事蒲州 
 刺史上輕車都尉丹陽縣開國 
 侯真卿以清酌庶羞祭于 
 亡姪贈贊善大夫季明之靈曰 
 惟爾挺生夙標幼德宗廟瑚璉 
 階庭蘭玉方憑積善每慰 
 人心方期戩穀何圖逆賊開 
 釁稱兵犯順 爾父□制被脅竭誠常 
 山作郡余時受 命亦在平 
 原 仁兄愛我俾爾傳言爾既
 歸止爰開土門土門既開凶威

 
 祭姪文稿 顔真卿 [唐] 紙本墨書 一巻 台北故宮博物院 維基百科より     
 
 (旧暦  1月14日)  

 風生忌 俳人富安風生の昭和54年(1979)の忌日

 顔真卿(1)-『祭姪文稿』のつづき

 『祭姪文稿』は、『祭伯父文稿』、『争坐位帖』と並んで三稿の一とされていますが、真蹟本がのこっているのはこれだけです。顔真卿の書の最高傑作と言われています。

 草書体を交えた行書で、肉太の堂々とした線、筆管を垂直に立て紙面に透過させるような筆圧の変化等顔法の特徴がよく出ていると評されています。
 また甥(姪)の死を悼み事の成り行きを悲憤慷慨する文章や、文章を訂正、推敲する様子なども、文字と一体となって雰囲気を盛り上げています。

 全文268字のうち、塗り潰された文字が34文字もあるのは、顔真卿の心の乱れか、安禄山に対する義憤の情か、「何ぞ図らん逆賊の間をつき兵を稱げ順を犯さんとは、爾(なんじ)の父は誠をつくし常山郡の太守となり、余もまた命を受けて平原郡の太守たり」などの文字が激しい筆致で書かれています。

 また、文中には「賊臣不救、孤城圍逼、父陥子死、巣傾卵覆」(賊臣救わず、孤城は包囲され、父は陥落し、子は死に、巣は傾き、卵は覆った)とも書かれています。
 
 顔真卿の書は「拙にして巧、円にして直、雄強豪放、端荘肥厚」と評されるように、肉厚のあるのびのびとした書体は顔真卿の剛直な性格をそのまま現しており、のちに「顔体」と呼ばれて、中国の書の世界に、それまで正統とされてきた王羲之とはまた違った書風をもたらしました。

 それゆえ、顔真卿の書には好き嫌いがあり、北宋四大家のひとりである蘇軾(そしょく)(1036〜1101)は、「顔公の変法は新意出ず、細筋入骨、秋鷹の如し」と絶賛しましたが、一方、同じ北宋四大家の米芾(べいふつ)は、「俗品」「醜怪悪札」とまで酷評しました。しかし、北宋以後の書家たちは、この顔真卿の書を必ず学んだとされています。
 
 National Place Museum(國立故宮博物院) ゙Draft of a Requiem to My Nephew゙
 (http://www.npm.gov.tw/en/e030101.htm

 以下つづく

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Posted by 嘉穂のフーケモン at 18:49│Comments(0)
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