2005年02月23日
書(4)-顔真卿(3)-『祭姪文稿』(さいてつぶんこう)
大蹙
孤城圍逼父
傾卵覆 天不悔禍誰為
荼毒念爾遘殘百身何贖
嗚乎哀哉吾承
天澤移牧
比者再陷常山
首櫬
震悼心顏方俟
幽宅
久客嗚呼哀哉尚饗
祭姪文稿 顔真卿 [唐] 紙本墨書 一巻 台北故宮博物院 維基百科より
(旧暦 1月15日)
顔真卿(2)-『祭姪文稿』のつづき
顔真卿は、至徳元載(756)平原城を捨て、鳳翔県(陝西省)に避難中であった7代皇帝粛宗(?〜762)(在位756〜762)の行在所にはせ参じて憲部尚書に任じられ、御史大夫をも加えられました。
また、8代皇帝代宗(726〜779)(在位762〜779)のときには尚書右丞となって、魯郡公に封ぜられました。
さらには、太子太師(皇太子の師範役)に任じられましたが、直言をはばからない剛直な性格が災いして、宦官勢力や宰相の元載のような実権者から妬まれました。
そのため建中3載(783)、河南淮西節度使の李希烈(?〜786)が反乱を起こした際、宰相元載の陰謀により、顔真卿に対して9代皇帝徳宗(742〜805)(在位779〜805)の勅命が下り、李希烈慰諭(帰順の説得)の特使に任じられました。
周囲の重臣達は、顔真卿に思い留まるように勧めましたが、「君命に逆らうこと能(あたわ)ず」として、単身敵地に乗り込み捕らわれの身となってしまいました。
李希烈は顔真卿に寝返るように勧めましたが、最後まで節を曲げず、3年の幽閉の後、自ら墓誌を書き、従容として縊死されたと云います。
徳宗はこのしらせを聞いたとき、大いに悲しんで誤りを悟り、朝を廃する(喪に服す)こと5日、顔真卿に司徒(政治をつかさどる官職)を追贈しました。
顔真卿は、玄宗、粛宗、代宗、徳宗の4代にわたる皇帝に仕え、変わらぬ忠誠を貫きました。
このような生き様が、人々の感銘を誘うのでしょう。
顔真卿は、平素は優れた人格者として知られ、人々から『顔魯公』と呼ばれていました。
著書に『顔魯公文集』があります。
また、楷書・行書・草書の名家としても人々の尊敬を受け、とくにその草書は、筆力雄勁として尊ばれました。その書は世に宝とされ、「顔法」ということばも生まれ、唐代の書道に強い影響を与えました。
没後、文忠と諡(おくりな)されています。
李希烈は顔真卿に寝返るように勧めましたが、最後まで節を曲げず、3年の幽閉の後、自ら墓誌を書き、従容として縊死されたと云います。
徳宗はこのしらせを聞いたとき、大いに悲しんで誤りを悟り、朝を廃する(喪に服す)こと5日、顔真卿に司徒(政治をつかさどる官職)を追贈しました。
顔真卿は、玄宗、粛宗、代宗、徳宗の4代にわたる皇帝に仕え、変わらぬ忠誠を貫きました。
このような生き様が、人々の感銘を誘うのでしょう。
顔真卿は、平素は優れた人格者として知られ、人々から『顔魯公』と呼ばれていました。
著書に『顔魯公文集』があります。
また、楷書・行書・草書の名家としても人々の尊敬を受け、とくにその草書は、筆力雄勁として尊ばれました。その書は世に宝とされ、「顔法」ということばも生まれ、唐代の書道に強い影響を与えました。
没後、文忠と諡(おくりな)されています。
書(22)— 空海(1)— 風信帖
書(21)— 文徴明— 後赤壁賦
書(20)-欧陽詢(2)-九成宮醴泉銘(2)
書(19)-欧陽詢(1)-九成宮醴泉銘(1)
書(18)−蔡襄−求澄心堂紙尺牘
書(17)−祝允明−草書李白歌風臺詩巻
書(21)— 文徴明— 後赤壁賦
書(20)-欧陽詢(2)-九成宮醴泉銘(2)
書(19)-欧陽詢(1)-九成宮醴泉銘(1)
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