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2005年05月08日

書(7)−懐素(1)−自叙帖(1)

 書(7)−懐素(1)−自叙帖(1)
 
 懷素家長沙 幼
 而事佛 經禪之
 暇 頗好筆翰
 然恨未能遠覩
 前人之奇跡 所
 見甚淺 遂擔

 笈杖錫 西遊上
 國 謁見當代名公
 錯綜其事 遺
 編絶簡 往往遇之 
 豁然心胸 略


 自叙帖 懷素 [唐] 紙本墨書 一巻 台北故宮博物院 維基百科より


 (旧暦  4月 1日)

 懐素(かいそ)(629〜697)は、西遊記で有名な三蔵法師(玄奘三蔵602〜664)に師事したと云われており、仏教学者で東大名誉教授であった故鎌田茂雄氏の『中国仏教史』によれば、師・法礪(569〜635)の説を批判して『東塔(律)宗』を開いたとされている大変偉い人のようですが、こちらの狂僧と呼ばれた懐素(725?〜786?)は、酒や肉が大好きな、あきれた生臭坊主だったようです。 

 『茶経』3巻を著して飲茶の風習を世に広め、茶神としてまつられた陸羽(733〜803)の『唐僧懷素傅』によれば、1日に9回、酔いつぶれるほどに酒を飲み、そのために胃を壊し、通風になったにもかかわらず、それでも杯を手放さなかったと云う、とんでも無いおっさんで、現代サラリーマンの鑑(かがみ)のようなお方です。
 余談ですが、仏教の小乗教の教典は、内容が経蔵(釈尊の説法を集めた阿含経)・律(教団の生活規則を集録したもの)・論(教理を体系的に叙述したもので、哲学的研究すなわち阿毘達磨)の3部に分かれ、これを総称して三蔵といいますが、中国では、三蔵は「一切経ないしは大蔵経」と呼ばれていました。

 この三蔵に精通した者を三蔵法師と呼び、その略称として「三蔵」は玄奘三蔵・義浄三蔵のごとく使用されています。

 このお方、酒に酔って興がのると、寺の壁や扉、衣服など、ところかまわず字を書きまくったと云います。
 それも5杯や10杯の酒では足りず、100杯も呑むと頓狂になり、大きく数声叫ぶと筆を取り、あたりを走り回ってあっという間に、千万字も書いてしまう。
 (ほんまかいな?千万字でっせ!400字詰原稿用紙25,000枚分でっせ!)
 ほとんど精神異常、ないしはアル中ではないでせうか!

 字の大きいものは、一字1丈2尺(3.6メートル)もあり、「翕(きゅう)として撥刺(はつらつ)と長鯨の海島を動かすがごとし」(島を動かす鯨のように生き生きとしていた)と中唐の詩人任華の「懷素上人草書歌」にも歌われています。

 元禄5年(1692)8月、松尾芭蕉(1644〜1694)は江戸生活での最後の住み家となった第三次芭蕉庵に転居しましたが、この新しい庵に旧庵にあった芭蕉を移植しました。  
 そのときの感慨を述べた作品に「芭蕉を移す詞(ことば)」がありますが、その中の一節に、「僧懐素はこれに筆を走らしめ」とあります。

 これは、先に紹介した陸羽の『唐僧懷素傅』による懐素の故事を述べたものですが、貧乏だった懐素は字を書くための紙が手に入らず、庭に植えられている芭蕉の葉に字を書く練習をし、一本の芭蕉の葉は、たちまち無くなってしまったそうです。
 
 そこで懐素は、自分の家のまわりに、次々と芭蕉の木を植え、その木の数は一万本になったということです。

 これもほんまかいな?

 さすが中国、国もでかいが、話しもでかい!

 これもつづく

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Posted by 嘉穂のフーケモン at 17:13│Comments(0)
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