さぽろぐ

文化・芸能・学術  |札幌市中央区

ログインヘルプ


2013年01月14日

史記列傳(13)−張儀列傳第十

 史記列傳(13)−張儀列傳第十

 戦国形勢図(紀元前350年)

 (旧暦12月3日)

 今日は大雪。小寒を過ぎて大寒を迎えようとしているこの時期に大雪とは・・。
 平日でなくてよかったのい。

 六國既に從親(せうしん)し、而して張儀能く其の說を明らかにして、復た諸侯を散解す。よりて張儀列傳第十を作る。

 齊、楚、燕、韓、趙、魏の六国はすでに合従して盟約していたのに、張儀はよく自説を明示して、ふたたび諸侯の国々をばらばらにしてしまった。ゆえに張儀列傳第十を作る。
 (太史公自序第七十:司馬遷の序文)


 張儀(?〜309BC)は魏に生まれ、後に合従策を打ち出した蘇秦とともに、齊の鬼谷先生(王禪老祖、戦国時代の縦横家で百般の知識に通じ、『鬼谷子』三巻を著したといわれる人物、鬼谷=河南省鶴壁市淇県の西部に位置する雲夢山に住したとされる)に師事して学問を習いました。

 鬼谷先生のもとで学び終えた張儀は、諸侯の間を遊説して廻ります。
 あるとき楚の宰相の相手をして酒を飲んでいる内に、宰相が璧(へき、玉器)を紛失してしまいます。
 家来たちは張儀を疑い、「張儀は貧乏で品行も良くない。こいつがわが君の璧を盗んだに違いない。」と、群がって張儀を捕らえ、数百回も笞を打ちました。しかし、張儀が罪を認めないので、解き放ちました。


 張儀已に學びて、諸侯に游說す。嘗て楚の相に從ひて飲す。已にして楚の相璧(へき)を亡(うしな)ふ。門下、張儀を意(うたが)ひて曰く、儀は貧にして行(おこな)ひ無し。必ず此れ相君の璧(へき)を盜みたらん、と。共に張儀を執(とら)へ掠笞(りやうち)すること數百。服せず、之を醳(ゆる)す。

 張儀の妻が、「ああ、あなたが書を読んだり遊説したりしなければ、こんな辱めは受けなかったでしょうに。」と云うと、張儀は妻に向かって云いました。「私の舌を見よ。まだついているか、どうだ。」と。
「舌はついています。」と妻が笑いながら答えると、張儀は云いました。
「舌さえあれば十分だ。」と。


 其の妻曰く、嘻(ああ)、子、書を讀み游說すること毋(な)かりせば、安(いづ)くんぞ此の辱(はづかし)めを得んや、と。張儀其の妻に謂ひて曰く、吾が舌を視よ、尚ほ在りや不(いな)や、と。其の妻笑ひて曰く、舌在り、と。儀曰く、足れり、と。

 当時、張儀と同門の蘇秦は、趙の粛公(在位349BC〜326BC)に説いて、合従の盟約を結ばせることに成功していました。しかし、蘇秦は、秦が諸侯を攻撃して合従の盟約が破られ、それがもとで後になって諸侯から責められることを恐れていました。そこで秦に赴いて、秦が諸侯を攻撃しないように工作する人物を検討していました。

 蘇秦は同門の張儀に目を付け、人を派遣して、張儀に対して蘇秦に会うようにそれとなく勧めます。

 そこで張儀は趙に赴き、蘇秦に面会を求めます。しかし蘇秦は、同門のよしみで面会に来た張儀に対して、なかなか面会に応じず、また面会はしたものの庭先に座らせ、下男に与えるような粗末な食事を与えて、「子は収むるに足らざるなり」と屈辱します。

 張儀は、屈辱され怒りに打ち震えますが、秦のみが趙を苦しめることができようと考えて、秦に行くことを決意します。

 その後、張儀は蘇秦の蔭の資金援助により、秦の惠王(惠文王、在位338BC〜311BC)の客卿(他国から来て卿相となったもの)に取り立てられます。
 
 後になって蘇秦の策略に従って知らず知らずの内に行動していたことを蘇秦の側近から知らされた張儀は、秦への仕官が叶ったことから、蘇秦がいる限りは決して趙を陥れようとはしないと蘇秦の側近に伝言させます。

 張儀既に秦に相たり。文檄を爲(つく)りて楚の相に告げて曰く、始め吾、若(なんぢ)に從ひて飲む。我、而(なんぢ)の璧(へき)を盜まず。若(なんぢ)、我を笞うてり。若(なんぢ)、善く汝(なんぢ)の國を守れ。我顧(かへ)りて且(まさ)に而(なんぢ)の城を盜まんとす、と。

 秦という巨大な軍事力を背景に、張儀はその得意の舌を使って、恫喝、虚言、御爲ごかし、誹謗、讒言・・等々、あらゆる手段で戦国の世を引っかき回していきます。
 司馬遷は、張儀の策謀を次のように記しています。

 1. face01秦の惠文王(在位337BC〜311BC)九年(316BC)、苴(しよ、巴郡)と蜀とが攻め合い、それぞれが秦に危急を告げに来ました。惠文王は出兵して蜀を討とうと思いましたが、蜀への道は険しくて容易には行き難く、其の上国境を接する韓が進入してきました。韓を撃退してから蜀を討つとすれば戦機を逸する恐れがあり、さればとて先に蜀を討てば韓にその虚を衝かれるのではないかと、惠文王は対応を決めかねました。

 そこで惠文王は張儀と将軍の司馬錯に意見を述べさせます。

 張儀は、「蜀を討っても益はありません。名を爭ふ者は朝に於てし、利を爭ふ者は市に於てす、と申します。韓を討った上で、軍を東西二つの周の都近くまで進め、周王の罪を責めて伝国の宝器九鼎を譲り受け、もって天下に号令をかけるべきです。」と主張しました。
 
 これに対し、司馬錯は、「秦の地は小さく、民は貧しい状況です。先ずは容易な事から取り組むべきで、広大な蜀の地を手に入れて民を豊かにし兵に報いて国力の増強を図るべきです。」と主張し、併せて周を脅かすことの不利益を述べました。

 恵文王は、司馬錯の意見を採用して蜀を平定し、蜀王の位を蜀候へとおとします。これにより、秦は国土が広がり、また楚に対しては背後をとる形になって優位に立ちました。

 史記列傳(13)−張儀列傳第十

 蜀の桟道

 2. face02惠文王の十年(315BC)、 秦は公子華と張儀が魏の蒲陽を陥落させて魏の公子繇を人質として差し出させ、さらに上郡、少梁を獲得しました。
 一年後、張儀は将軍として出陣して狭を略取し、二年後、齧桑で斉、楚の宰相と会談します。その後、秦の宰相を免ぜられて、秦のために魏に赴き、魏でも宰相に取り立てられて、魏を秦に服従させ、他の諸侯もこれにならわせようとしますが、魏の襄王(在位318BC〜296BC)は張儀の意見に従おうとしません。怒った惠文王は魏の曲妖と平周を攻め取り、密かに張儀を手厚く処遇します。

 張儀が魏に赴いて四年後、魏では襄王が死に、哀王が位に就きます。張儀は、哀王にも秦への服従を説きますが、哀王は聴き容れませんでした。そこで張儀は、密かに秦に魏を攻めるようにさせ、秦と戦った魏は敗北します。
 その翌年、齊がまた魏に攻め入り、観津で魏を破ります。秦も再び魏を攻めようとし、まず韓の申差の軍を破り、八万もの兵士の首を斬りました。諸侯は戦慄してしまいます。そこで張儀は、魏の哀王に再び説きます。

 ここは秦に服従するにこしたことはありません。そうすれば、楚も韓も魏を攻めたりできません。
 積羽舟を沈め、羣輕軸を折り、衆口金を鑠かし、積毀骨を銷す。
「積み過ぎれば羽毛も舟を沈め、載せ過ぎれば軽い品物でも車軸を折り、衆人の口にかかれば金も溶かされ、非難されることが重なれば骨まで消される」と云います。どうか慎重に方策をさだめられますように。

 そこで哀王は合従の盟約を離脱し、張儀を仲立ちとして秦に和を請うたのでした。

 3. face03張儀は秦に帰って、また宰相に復帰しました。しかし三年後、魏は秦との盟約に背き、合従の盟約に加わりました。秦は魏を攻めて、曲妖を占領します。その翌年、魏はまた秦に臣従しました。

 秦は齊を討とうとしたので、齊と楚は同盟しました。そこで張儀は齊と楚の同盟を破棄するために楚に赴き、商・於の地六百里を楚に献上するかわりに、齊との盟約を絶つようにうながしました。

 張儀は楚の懐王に説いて云います。
 大王誠に能く臣に聽きて、關を閉ぢ約を齊に絶たば、臣請ふ、商・於の地六百里を獻じ、秦の女をして大王の箕帚の妾と爲るを得しめ、秦・楚、婦を娶り女を嫁し、長く兄弟の國たらしめん。

 懐王は張儀の献策を採用することにしましたが、ひとり縦横家の陳軫のみが反対しました。しかし懐王はその意見を退け、宰相の印綬を張儀に授けます。
 こうして楚は齊との同盟を絶ちましたが、楚の使者に対して張儀は六里を献上すると言い出しました。
 張儀乃ち朝し、楚の使者に謂ひて曰く、臣、奉邑六里有り。願はくは以て大王の左右に獻ぜん、と。
 騙されたことを知った楚の懐王は秦を攻めましたが、秦と齊に挟撃され兵士の首を斬られること八万、大敗してしまいます。

 4.face04 結局、楚は丹陽、漢中の二城を割譲し、秦と和睦します。そして懐王は秦が望んだ黔中の地を献上する代わりに、憎き張儀の引き渡しを要求しました。張儀は楚に赴きますが、楚の家臣靳尚を通じて、懐王の夫人鄭袖に取り入って工作し、殺されずにすみました。

 張儀はその後も楚に留まり、懐王に説きます。
 「秦は強国です。合従論者は弱国を寄せ集めて、最大の強国秦に対応しようとしています。」
 臣之を聞く、兵如かざる者は與に戰ひを挑む勿かれ。粟如かざる者は、與に久しきを持する勿かれ、と。
 「兵力が及ばなければ戦をしかけるな。食糧が乏しければ長戦をするな。」と申します。
 卒に秦の禍有るも爲すに及ぶ無きのみ。
 秦の侵攻を受けても、なすすべは無いのです。

 臣聞く、功の大なる者は危かり易く、而うして民の敝(つか)れたる者は上(かみ)を怨む、と。

 懐王は屈原の反対を押し切り、張儀の説を容れて、秦と親交することにしました。

 史記列傳(13)−張儀列傳第十

 古函谷関

 5. face05張儀は楚から韓に赴き、襄王に説いて秦と韓を同盟させました。秦に帰って張儀が報告すると、惠文王は張儀に五邑に封じ、武信君の称号を与えられました。
 さらに張儀は、齊に赴いて湣王に説き、趙に赴いて武霊王に説き、北の方燕に赴いて昭王に説いて秦との同盟を成立させました。

 ここに秦と齊、楚、燕、韓、魏、趙の東方六国との同盟が成立し、連衡が成就しました。
 しかし、張儀が秦に帰って報告する前に惠文王が死に、武王が立つと、武王は太子の頃より謀略家である張儀と不仲だったために群臣がさかんに張儀のことを讒言したので、張儀と武王との間に溝があることを知った諸侯は、皆連衡に背いて再び合従策に戻ってしまいました。

 秦の武王元年(310BC)、群臣の日夜張儀を謗る声は止まず、齊からも張儀をとがめる使者が来ました。
 張儀は誅殺されることを恐れ、武王に説いて魏に逃れました。そして魏でも宰相に任じられましたが、武王二年(309BC)、魏の地で没しました。

 司馬遷はこの後に、張儀とともに惠文王に仕えていた縦横家の陳軫(齊の人)、犀首(公孫衍、魏の陰晉の人)のことも記述して、張儀列傳第十を次のように締めくくっています。

 太史公曰く、三晉には權變の士多し。夫れ從衡を言ひて秦を彊(つよ)くせし者は、大抵皆三晉の人なり。夫れ張儀の行事は、蘇秦よりも甚(はなは)だし。然るに世、蘇秦を惡(にく)むは、其の先づ死して、儀が其の短を振暴して、以て其の說を扶(たす)け、其の衡道を成ししを以てなり。之を要するに、此の兩人は眞に傾危の士なるかな。

 太子公司馬遷が論評しました。
 三晉(晉の国が、韓・魏・趙の三国に分裂したことから、この三国を指す)には権謀術策に長けた人物が多い。思うに、合従連衡の論をなし、秦を強くした者も、その大部分が三晉の出身である。
 そもそも張儀の行動事蹟は、蘇秦よりもいっそう過激である。しかるに世間では蘇秦の方を憎悪するのは、蘇秦が先に死んだため、張儀がその欠点を暴露して言い立て、自説を有利にするために利用し、自分の連衡論を実現させたからである。
 結局は、蘇秦も張儀も、なんと危険な人物であったことか。



あなたにおススメの記事

同じカテゴリー(史記列傅)の記事画像
史記列傳(15)− 穰候列傳第十二
史記列傳(14)− 樗里子甘茂列傳第十一
史記列傳(12)−蘇秦列傳第九
史記列傳(11)ー商君列傳第八
史記列傳(10)-仲尼弟子列傳第七
史記列傳(9)-伍子胥列傳第六(2)
同じカテゴリー(史記列傅)の記事
 史記列傳(15)− 穰候列傳第十二 (2021-06-01 00:03)
 史記列傳(14)− 樗里子甘茂列傳第十一 (2017-11-22 20:20)
 史記列傳(12)−蘇秦列傳第九 (2012-03-24 12:50)
 史記列傳(11)ー商君列傳第八 (2011-05-22 14:23)
 史記列傳(10)-仲尼弟子列傳第七 (2010-04-19 17:13)
 史記列傳(9)-伍子胥列傳第六(2) (2009-07-13 23:44)
Posted by 嘉穂のフーケモン at 18:52│Comments(0)史記列傅
※このブログではブログの持ち主が承認した後、コメントが反映される設定です。
上の画像に書かれている文字を入力して下さい
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。
削除
史記列傳(13)−張儀列傳第十
    コメント(0)