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2005年11月27日

板橋村あれこれ(14)−近藤局長終焉の地

 板橋村あれこれ(14)−近藤局長終焉の地

 近藤勇昌宣之墓 

 (旧暦 10月26日)

 慶応4年4月3日、東山道軍斥候隊として総州流山で賊徒の取り調べに当たった東山道先鋒総督府副参謀の薩摩藩士有馬藤太(1837〜1924)らに投降した近藤さんは、当初大久保大和と名乗って部隊の兵器を差し出し恭順の意を示していましたが、彦根藩士渡辺九郎佐衛門に見破られ、囚われの身となってしまいました。

 そして4月5日、総督岩倉具定(岩倉具視の第3子、1851〜1910)、参謀板垣退助(1837〜1919)率いる中山道御総督(東山道軍)の本陣がある中山道板橋宿の仲宿脇本陣の豊田一右衛門宅に護送され軟禁されました。
 
 有馬藤太は近藤さんの一軍の将としての人物を惜しみ、上司に自分が戻るまで近藤さんの処分を保留し相応の待遇を頼むという内容の手紙を送りましたが、当時坂本龍馬を暗殺したのは新選組であるとして復讐の念に萌えていた土佐藩士で後に西南戦争では熊本鎮台司令官として西郷軍の攻撃から52日間にわたって熊本城を死守した谷守部(干城、1837〜1911)や軍監の水戸脱藩香川敬三(1841〜1915)らの強硬な姿勢に押され、近藤さんは斬首の刑となってしまいました。

 4月24日、近藤さんは滝野川三軒家(北村)の石山亀吉邸で今生最後の夜を過ごし、翌4月25日、中山道平尾一里塚の馬捨て場で、ついに斬首されてしまいました。斬首の太刀取りは、美濃揖斐で5,300石を領する直参旗本岡田家の武術指南役横倉喜三次という人物でした。
 この馬捨て場は、現在の旧中山道JR埼京線踏切から東側に約60m入ったあたりの街道脇と現在は暗渠となった千川上水との間に在ったようですが、跡地は明確ではありません。宿場町では、駅馬用の馬が死ぬと埋葬したので馬捨て場と呼ばれていたそうです。

 近藤さんの首は、一旦この板橋宿はずれの平尾一里塚馬捨て場に晒された後、火酒(焼酎)に浸されて京都に送られ三条河原に晒されました。

 平尾一里塚馬捨て場の高札には、下記のような一文が記されていたそうです。
  近藤勇
 其方儀、京都新選組之頭を勤め
 また東下し大久保大和と変名し
 甲州勝沼、下総流山において官軍に抵抗し
 上は朝敵、下は徳川の内命などと偽り
 不容易企てに及び候段
 其罪数ふるにいとまあらず
 よって処刑に行なうもの也
  慶応四年四月廿五日

 近藤さんの胴体は、板橋の平尾一里塚馬捨て場に埋められていましたが、4月28日夜、近藤さんの実兄宮川音五郎とその息子勇五郎らによって遺体を掘り出して持ち帰り、宮川家菩提寺である東京都三鷹市の龍源寺に埋葬したとされています。

 写真の墓所は、JR埼京線板橋駅の東側、北村滝野川7丁目8番地にあり、元新選組隊士であった松前藩脱藩、新選組副長助勤、二番隊組長永倉新八(1839〜1915)により、函館で戦死した土方歳三(1835〜1869)と合わせて明治9年(1876)にこの地に墓が建てられました。

 近藤勇昌宣の名前が宣昌と逆に彫られている理由は不明です。
 左側面には新選組の戦死者39名、右側面には病死者、変死者、隊則違反で処断された隊士71名の名が刻まれています。

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Posted by 嘉穂のフーケモン at 14:38│Comments(0)板橋村あれこれ
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