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2006年05月07日

板橋村あれこれ(16)−千川上水(1)

 板橋村あれこれ(16)−千川上水(1)

 飛鳥山台上より新幹線架線越しに、25m下の東京低地(旧荒川氾濫原)を望む

 (旧暦  4月10日)
 
 健吉忌 評論家山本健吉の昭和63年(1988)の忌日。明治期の評論家、小説家、俳人、弁護士、県会議員(長崎県)の石橋忍月(貞吉、1865〜1926)の三男として生まれ、慶應義塾大学国文科卒。在学中に折口信夫に師事して民俗学の方法を学び、卒業後は改造社に入社。「俳句研究」の発刊、編集に携わり、中村草田男らを世に送り出し、昭和24年からは評論家として、文芸評論のほか、俳句の評論や鑑賞を執筆した。 代表作は『芭蕉−その鑑賞と批評』、『古典と現代文学』、『柿本人麻呂』、『最新俳句歳時記』他。



 帝都東京といっても家康の江戸入府以前は、今の隅田川以東の墨田、江東は干潟と葦原が続く湿地帯および古利根川、古隅田川の氾濫原でした。
 
 また、渋谷、新宿、文京、豊島などの高台(淀橋台、本郷台など)は、新生代第四紀更新世(洪積世:180万年前〜1万年前)の間氷期の海進によって堆積された「東京層」と呼ばれる砂礫からなる海成層のうえに古富士火山(武蔵野ローム)やその後の箱根火山(立川ローム)の火山灰が堆積した関東ローム層が5〜8m堆積し、水はけが良くて飲用水や灌漑用水を確保するのが難しく、多くの人口を養うことができない不毛の土地でした。

 反対に、古くから発達した京都や奈良などは水利に恵まれた肥沃な土地でした。

 北条氏政(1538〜1590)を亡ぼして天下統一を成し遂げた豊臣秀吉(1536〜1598)により、武蔵、上野、下総、上総、相模、伊豆6ヵ国約240万石の太守となって関東へ転封させられた徳川家康(1543〜1616)は、江戸を関東支配の本拠地と定めて天正18年(1590)8月1日に入国しましたが、入国した当時の江戸は、現在の皇居外苑一帯は汐入りの茅原で「日比谷入江」と呼ばれ、「江戸前島」と呼ばれる標高4〜5mの低い半島(現在の京橋、銀座)がつき出していました。

 深川あたりは満潮になると海面下に没する湿地帯で、また、西方と北方は淀橋台、本郷台、豊島台、成増台といった一面の草原が果てしなく武蔵野に連なっていました。
 これらの台地には小さな川や湧き水がありましたが、低地では井戸を掘っても塩分が強くて飲料水に適さなかったため、家康は入国に先立つ天正18年(1590)7月12日、譜代の家臣大久保藤五郎忠行に上水開設の調査を命じました。

 「くもる、藤五郎まいらる、江戸水道のことうけ玉わる」
 『校註天正日記』 天正18年7月12日の項


 大久保藤五郎が調査し、江戸府内に通じた上水(小石川上水)は、どの地点からどのように通じたのかは不明ですが、『校註天正日記』の注により、小石川を水源とし、目白台下にあった流れを利用して神田方面まで導いたものと考えられています。
 
 「くもる、(中略)、小石川水はきよろしくなり申、藤五郎の引水もよほどかかる」
 『校註天正日記』 天正18年10月4日の項


 小石川上水は江戸における最初の水道となり、その後の江戸の発展とともに神田上水へと発展していきました。

 慶長8年(1603)、徳川家康が江戸に幕府を開いた当初までは、江戸府内の飲料水は小石川上水(のち神田上水)といくつかの溜池からの給水でまかなえていました。
 しかし、急激な膨張を続けた江戸の人口と府域の飲料水を確保するため、幕府は新たな給水を迫られ、次々と上水を開設していきます。

 4代将軍家綱の時代の承応3年(1654)に玉川上水を開鑿し、万治2年(1659)に亀有上水、同3年(1660)に青山上水、寛文4年(1664)に三田上水、そして5代将軍綱吉の時代の元禄9年(1696)に千川上水がそれぞれ開設されました。

 以下つづく

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Posted by 嘉穂のフーケモン at 12:20│Comments(0)板橋村あれこれ
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