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2008年10月19日

谷中霊園(1)-北の都に秋たけて(駒井重次氏のお墓)

 

 乙5号5側の駒井家の墓碑 右側に「北の都に秋たけて」の墓誌

 (旧暦  9月21日)

 晩翆忌 詩人、英文学者の晩翆土井林吉の昭和27年(1952)年の忌日。明治32年(1899)、漢詩調詩風の第一詩集『天地有情』を刊行。この詩集で島崎藤村と並び称される代表的詩人となった。
 明治37年(1904)、母校第二高等学校の教授(英語)として赴任、明治38年(1905)、第二高等学校校歌「天(そら)は東北」を作詞。
 昭和7年(1932)、本来の名字である土井(つちい)を、誤って「どい」と多く読まれたことを受けて改姓。従って、土井晩翠(どいばんすい)が正式名称。

 北の都に秋たけて
 吾等二十(はたち)の夢数(かぞ)う
 男女(おとこおみな)の棲(す)む国に
 二八(にはち)に帰るすべもなし
 (大正四年 第四高等学校時習寮 南寮寮歌)


 かつて北陸金沢に在った旧制第四高等学校の寄宿舎、時習寮南寮の大正四年寮歌「北の都に秋たけて」は、全国数ある寮歌の中でも有名な歌で、私「嘉穂のフーケモン」も高校時代にあこがれて歌った曲のひとつでした。

 この歌を作詞した駒井重次(1895~1973)氏は、東京高等師範学校附属中学校(現筑波大学附属中学校・高等学校)出身で、東京の中学校柔道界では名の知られた存在でしたが、かつて東京高等師範学校教授を勤めたこともある溝淵進馬校長の在籍する第四高等学校をめざして進学してきたようです。

 溝淵進馬校長は高知県の出身で、明治28年(1895)年、帝国大学文科大学哲学科を卒業し、二高教授、千葉中学校長、高等師範学校教授、東北帝国大学農科大学予科(旧札幌農学校)教授を歴任の後、大正元年(1911)、四高の第7代校長に就任しています。

 四高の柔道が最盛期に入ったのは、大正元年(1911)、東北帝国大学農科大学予科(後の北大予科)から溝渕校長が赴任してきてからであり、有段者であった溝渕校長は自ら柔道着に着替えて武術道場無声堂(旧)に立ち、部員と一緒に稽古をしていたと伝えられています。  続きを読む

Posted by 嘉穂のフーケモン at 11:40Comments(0)谷中霊園