2008年11月09日
おくの細道、いなかの小道(8)-白川の関
寛政12年(1800)8月、白河藩久松松平家第3代藩主松平定信(1759~1829)が、種々考証の結果からこの地を古代の白河関跡と結論して建てた「古関蹟」碑
古関蹟
白河関跡、堙没(いんぼつ)して其の處所を知らざること久し。
旗宿村の西に叢祠(そうし)あり。地、隆然として高し。
いわゆる白河(白川)その下を遶(めぐ)りて流る
これを図・史・詠歌に考え、また地形を老農の言に徴するに
これ其の遺址たるは較然(こうぜん)として疑はざる也。
すなわち碑を建て、以て標することしかり。
寛政十二年八月一日
白河城主従四位下左近衛少将兼越中守源朝臣定信識
(旧暦 10月12日)
卯の花を かざしに関の晴着かな 曾良
やったあ~!1年以上かかって、遂に、みちのくへ到着しました。
白河の関は都から陸奥(みちのく)に通じる古代官道東山道の要衝に設けられた関門で、蝦夷地との境界をなし、その成立と廃止の時期については定かではないようです。7世紀の後半にはすでに存在しており、平安中期(10世紀ごろ)にはその役割を終えたものと考えられているようです。
古来、本州東部およびそれ以北に居住し、朝廷からは「まつろわぬ民」として敵視されてきた蝦夷(えみし、えぞ)の人々は、9世紀までの数々の蝦夷征討や奥州十二年合戦(前九年の役、1051~1061)、後三年の役(1083~1087)、文治5年(1189)の源頼朝による奥州合戦、天正18年(1590)の豊臣秀吉による奥州仕置、そして幕末の奥羽列藩同盟に対する東北戦争、その後の函館戦争と、つねに中央政権から虐げられてきた存在でした。
そのような緊張の最前線が、古代の白河の関と菊多の関(勿来関)だったのでしょうか。
ここで芭蕉翁は、次のような古歌、故事に託して白河の関を描写しているようですが、なかなかの博学ですのん。
芭蕉翁が師事した歌人、俳人、和学者の北村季吟(1625~1705)は、いずれも朝廷の歌壇で活躍した飛鳥井雅章(1611~1679)や清水谷実業(1648~1709)に和歌、歌学を学んだことで、『土佐日記抄』、『伊勢物語拾穂抄』、『源氏物語湖月抄』などの注釈書をあらわし、元禄2年(1689)には歌学方として幕府に仕えています。
だから、芭蕉翁も博識なんですのん。
いかで都へと便求めしも断(ことわり)也
みちのくにの白河関こえ侍りけるに 平兼盛
たよりあらは いかて宮こへつけやらむ けふ白河の関はこえぬと (拾遺集 巻六 別 339)
秋風を耳に残し
みちのくににまかり下りけるに、白川の関にてよみ侍りける 能因(古曾部入道)
みやこをは かすみとともにたちしかと あきかせそふく しらかはのせき (後拾遺集 巻九 羈旅 518) 続きを読む