2008年11月22日
秋津嶋の旅(13)-蝦夷が嶋(3)-すぐに来ちゃった函館
1909年(明治42)に再建された赤煉瓦倉庫群より函館山を望む
(旧暦 10月25日)
近松忌、巣林忌 江戸元禄期に活躍した浄瑠璃、歌舞伎狂言作家、近松門左衞門の享保9年(1724)年の忌日。
元禄16年(1703) 曽根崎心中
正徳元年(1711) 冥途の飛脚
正徳5年(1715) 国姓爺合戦
享保5年(1720) 心中天網島
残れとは 思ふも愚か埋み火の 消ぬ間徒なる朽木書きして
函館の青柳町こそかなしけれ 友の恋歌 矢ぐるまの花
一握の砂 315
潮かをる北の浜辺の砂山の かの浜薔薇(はまなす)よ 今年も咲けるや
一握の砂 304
薄幸の歌人石川啄木(1886~1912)が函館に逗留していたのは、明治40年(1907)5月5日から9月12日までのわずか132日間でした。
啄木は、明治39年(1906)に函館の青柳町で結成された文学愛好者の集まりである苜蓿社(ぼくしゅくしゃ)同人、松岡蕗堂(政之助)をたより、函館の地を訪れました。
そして、同じく苜蓿社同人の吉野白村(章三)の世話で、6月11日に函館区立弥生尋常小学校の代用教員(月給12円)に採用され、7月7日には妻子(妻節子、長女京子)を呼び寄せ、青柳町18番地に新居を構えています。
その後、啄木は8月18日には代用教員在職のまま、苜蓿社同人宮崎郁雨(大四郎)の紹介により函館日日新聞の遊軍記者となっていますが、8月25日、東川町から出火した函館大火により、弥生尋常小学校も函館日日新聞社も焼失、同人誌『紅苜蓿』(べにまごやし)への寄稿もしていた札幌の向井永太郎の斡旋で、北門新報社の校正係となることが決まり、9月12日には弥生尋常小学校へ退職願を提出、翌9月13日、単身で札幌に向かっています。
ところで、苜蓿社同人には札幌農学校出身で、函館遺愛女学校、私立函館英語学校で教鞭をとり、私立清和女学校の講師の傍ら新詩社の社友として「明星」に短歌を発表していた大島野百合(経男)という人がいました。
大島野百合(経男)は、教え子との結婚の破綻や人生に対する懐疑から同人誌『紅苜蓿』(べにまごやし)の編集を啄木に託して明治40年(1907)7月、故郷日高に帰っていますが、「友の恋歌 矢ぐるまの花」という歌のモチーフは、かの大島野百合(経男)のことをさしているのでしょうか。
明治四十年八月二十五日夜の函館大火は驚くべき惨劇を演出して一時殆ど区の生命を絶てり。予当時弥生尋常小学校に代用教員たり薄給僅かに十二金遂に一家数人の口を糊すべからず。
乃ち函館日々新聞の招に応じ未だ校を辞せざるに暑中休暇を幸とし入りて同社に遊軍たり給十五金の約成る。生れて初めて新聞記者となり僅かに八日を経。火起りて社先づ焼け学校亦烏有に帰す。社は容易に立つ能はざるものの如く学校亦無資格者淘汰の噂頻りなり。
九月に入り札幌に在る詞友夷希微向井永太郎君より飛電あり来りて北門新報社に入れ月十五金を給せむと。乃ち其月十三日夕星黒き焼跡に名残を惜みて秋風一路北に向ひ翌十四日札幌に着き向井君の宿なる北七条西四丁目四、田中方に仮寓を定む。
秋風紀より
と云うわけで、出張で函館に行ってきました。 続きを読む