2005年09月17日
国立故宮博物院(5)−大禹治水図玉山(2)
大禹治水圖玉山
(旧暦 8月14日) 牧水忌 歌人・牧水若山繁の昭和3年(1928)の忌日
大禹治水図玉山(1)のつづき
清朝の記録によれば、この巨大な玉の原石は、乾隆帝の勅命により新疆の密勒塔(ミーローター)山から掘り出されました。そして新疆から北京までの約1万kmの距離を新たに道を開き、河には橋を架け、冬の間に道を凍らせて、車幅12mもの特大の運搬車で数百頭の馬と1000人近い人夫が3年かけて運んだと記録されています。
乾隆帝は王宮に伝わる宋代以前の作とされる『大禹治水図』が色褪せて劣化したことを惜しみ、中国古代の伝説的な帝王「禹」(う、2070BC頃)の治水事業の功績を後世に伝えるために、この巨大な玉に絵画の構図をそのまま刻むことを思いついたと云われています。
中国夏王朝の始祖とされる伝説上の人物「禹」は、司馬遷の『史記 夏本紀第二』の記述によれば、これも中国古代の伝説的な帝王「舜」の治世に起こった大洪水の治水に失敗した父親鯀(こん)のあとを受けて、非常な困難を克服してついに洪水を治め、天下を九州に分割して開拓し、以て版図を定めました。「禹」はその功により舜から帝位を譲られて夏王朝を開きました。
この「禹」治水の記録は、『書経 禹貢編』他、『史記 夏本紀第二』、『漢書 地理志』等に残されていますが、いずれにせよ、古代の大土木技術者にして、大指導者であったことは確かです。 続きを読む