2005年09月25日
染井霊園(9)−高田早苗先生の墓
(旧暦 8月22日)
もう30年以上も昔のフォークバンド全盛時代、「古井戸」が歌う「さなえちゃん」という曲が大好きでした。
大学ノートの裏表紙に さなえちゃんを書いたの
一日中かかって一生懸命書いたの
でも鉛筆で書いたから いつの間にか消えたの
大学ノートの裏表紙の さなえちゃんが消えたの
もう会えないの もう会えないの
二度と会えないの
あの「さなえちゃん」はどこに行ったのでしょうね。
さてこちらの早苗さんは、高田早苗(1860〜1938)先生といって、明治15年(1882)に小野梓(1852〜1886)らの協力を得て東京専門学校(後の早稲田大学)を創設した大隈重信(1838〜1922)の理想に共感し、東京専門学校【明治35年(1902)に早稲田大学に改称】の発展と充実に尽力した人です。
当時、明治新政府の筆頭参議であった大隈さんは、西南戦争後の赤字財政の再建政策と早期憲法制定、国会開設といった自由民権運動を巡る政府部内の対立から、折から起きた「開拓使官有物払下げ事件」を契機として参議伊藤博文(1841〜1909)、右大臣岩倉具視(1825〜1883)、参議井上馨(1835〜1915)等によって罷免されました。(明治14年の政変)
野に下った大隈さんは立憲政治の実現をめざして小野梓らと立憲改進党を結成し、併せて人材育成のために東京専門学校(後の早稲田大学)を創設したのですが、時の政府はこの学校を「明治14年の政変」で下野した大隈さんの私学校とみました。立憲改進党壮士養成の謀反人の学校に違いないと考えたのです。
西郷先生が作った鹿児島私学校が西南戦争の導火線になった経緯もあり、新政府の警戒も無理からぬ所もあったとは思われますが・・・・・。
学校の創立者でありながら、自分の胸に秘めた「学問の独立」という確固たる信念のために開校式に敢えて出席しなかった大隈さんが初めて学校の公式の場に立ったのは、明治30年(1897)の創立15周年記念の祝典の場においてでした。
「この学校は決して一人のものではない。国のものである。社会のものである。・・・私の従来の希望は少し大胆な企てのようであるが、どうもこの学問の独立をみたいということである。・・・」と。
高田早苗先生は、東京大学【帝国大学となったのは明治19年(1886)3月から】法学部在学中から東京大学予備門の仲間である逍遥坪内雄造(1859〜1935)等と共に大隈さんの片腕でもあった小野梓の活動に心髄し、明治15年(1882)に大学を卒業すると坪内雄造、天野為之(1860〜1938)、市島謙吉(1860〜1944)らと共に東京専門学校の教員に馳せ参じたと云います。
早稲田大学のHPによれば、高田先生は講師として憲法、政治学、史学等を教授したほか、学監、1911年初代学長(1911)、第3代総長(1923〜1931)として早稲田大学の基礎を築き、読売新聞主筆、また明治23年(1890)、山縣有朋内閣の下で行われた日本最初の第1回総選挙に全国最年少で当選して衆議院議員を6期務め、貴族院議員にも勅選され、その後第1次大隈内閣(明治31年【1898)6月30日〜明治31年(1898)11月8日】で外務省通産局長を、第2次大隈内閣(1914 〜1916)では文部大臣を務められています。
明治から昭和の初めにかけて、教育者としてあるいは政治家として大いに活躍された高田先生は、染井霊園の日当たりの良い一角に、静かに眠っておられます。
染井霊園(11)ー安岡正篤先生の墓
染井霊園(10)−ローデスカ・ワイリック先生の碑
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