2006年10月13日
漢詩(15)-章炳麟(1)-獄中、鄒に贈る
鄒容(1885~1905) from Wikipedia
(旧暦 8月22日)
嵐雪忌 芭蕉の高弟にして、芭蕉没後、宝井其角と江戸俳壇を二分した俳人服部嵐雪の宝永4年(1707)の忌日。
名月や 煙はひ行く水の上
獄中 鄒に贈る
鄒容は 吾が小弟
被髮(髪を振り乱す)して 瀛洲(えいしう、日本)に下る
快(するど)き剪刀(せんたう、はさみ)もて 辮(べん、辮髪)を除き
牛肉を乾して 餱(こう、乾肉)と作す
英雄 一たび獄に入るや
天地 亦た悲秋
命に臨みて 摻手(さんしゅ、手を握る)を須(もと)む
乾坤 只だ兩頭あるのみ
清朝末期、浙江省余杭県の地主の家の四男坊として生まれた章炳麟(1869~1936)は、中日甲午戦争(日清戦争)の敗北による下関条約(日清講和条約)締結に反対する人々が中心となって清朝の富国強兵を研究・推進することを目的として設立された団体である強學会に入会し活動しますが、光緒24年(1898、戊戌の年)に起きた戊戌の政変により西太后(1835~1908)ら反変法派(保守派)から厳しく追及されて日本へ亡命します。
その後上海に戻った章炳麟は、元清朝の役人で日清戦争における敗北や戊戌変法の失敗をきっかけに官職を捨てて革命家へと転向した蔡元培(1868~1940)が創設した愛國學社に加盟し、教師となりました。
ここで彼は、激烈な「排満復仇」を強く表明したセンセーショナルな書『革命軍』を著した鄒容(すうよう、1885~1905)と出会います。この時鄒容は19歳であり、すぐさま章炳麟と意気投合し、やがて義兄弟の契りを結びました。
光緒29年(1903)6月、章炳麟は『康有為を駁して革命を論ずる書』を雑誌『蘇報』に連載します。
これは、清朝の変法派(改革派)である康有為(1858~1927)が、保皇会を立ち上げて中国に立憲君主制を樹立すべく活動を行っていることへの反駁の書です。
上記の二著書は公然と清朝打倒を叫び、清朝の支配を脅かす強烈なインパクトを与えたため、捕縛されて下獄し、監禁されます。これが『蘇報』事件と呼ばれているものです。そしてこの時、章炳麟が詠んだ詩が、上記の「獄中 鄒に贈る」です。
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