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2005年12月05日

板橋村ゆかりの人々(2)−高野長英(2)

 板橋村ゆかりの人々(2)−高野長英(2)

  板橋宿旧水村玄洞宅跡(石神医院)

 (旧暦 11月 4日)

 板橋村ゆかりの人々(1)−高野長英(1)のつづき

 シーボルトが開設した鳴滝塾で3年以上も研鑽し塾頭として頭角を現していた長英でしたが、文政11年(1828)、シーボルトが帰国する際に幕府天文方・書物奉行の高橋景保(1785〜1829)らから手に入れた伊能忠敬の「大日本沿海輿地全図」の縮図や、蝦夷地図、葵の紋服などをオランダに持ち出そうとしたことが発覚し、シーボルトは国外追放のうえ再渡航禁止の処分を受けました。

 二宮周作や高良斎(1799〜1846)など主だった弟子も捕らえられて厳しい詮議を受ける中、かろうじて難を逃れた長英は天保元年(1830)に江戸に戻り、麹町貝坂に蘭学塾「大観堂」を開きましたが、まもなく三河田原藩12,000石江戸詰め家老渡辺崋山(1793〜1841)と知り合い、その能力を買われて田原藩のお雇い蘭学者として岸和田藩の藩医小関三英(1787〜1839)や田原藩の兵学者鈴木春山(1801〜1846)とともに蘭学書の翻訳に当たりました。

 天保3年(1832)、長英は紀州和歌山藩の藩医遠藤勝助らによって天保の飢饉の対策会として作られた洋学研究集団南蛮学社である尚歯会に入り、崋山らとともに中心的役割を担いました。

 天保9年(1838)、モリソン号に対する幕府の方針を漏れ聞いて深く憂慮した長英は「戊戌夢物語」を著して内輪で回覧に供しましたが、この本は長英の予想を超えて写本として流布していました。

 当時、第12代将軍徳川家慶(1793〜1853)のもと老中として、質素倹約の重農主義を基本とした享保・寛政時代への復古を目指し、経済改革を中心に綱紀粛清や軍制改革など(天保の改革)を実施した水野忠邦(1794〜1851)の目付で、大学の頭林述齋(1768〜1841)の子、鳥居耀蔵(1796〜1873)は、儒学者として極端に洋学を憎み、南蛮学社(尚歯会)に属する学者への弾圧(蛮社の獄)を加えました。
 
 天保10年(1839)5月18日、北町奉行所に出頭して予想に反し永牢の身となった長英は、弘化元年(1844)6月、小伝馬町獄舎の火災による切放しのときに脱獄し、逃亡しました。

 出牢後の1ヶ月は幕府の厳しい探索にも拘らず消息不明でしたが、7月下旬の或る夜、彼の門人である板橋宿在住の医師水村玄洞宅を訪れました。
 玄洞は身の危険を省みず一両日長英を奥座敷にかくまい、7月晦日の深夜には北足立郡尾間木村に住む同門で実兄の医師高野隆仙宅へ人をして逃れさせました。
 
 水村家は代々の医家で、玄洞は板橋中宿で医業を開業していましたが、蘭学に強い関心を抱いて長英に師事し、長英は請われて詩を書き与えるなど深い交流がありました。
 また、長英が投獄されたことを悲しみ、牛込の漢方医加藤宗俊が中心となって進めていた長英の減刑赦免の運動にも参加し、積極的に活動していたと云います。

 その後硝酸で顔を焼き、沢三伯と変名した長英は郷里水沢に老母を尋ね、さらに江戸、近畿、四国、九州と逃亡生活を続け再び江戸に舞い戻りましたが、嘉永3年(1850)10月30日、青山百人町の隠れ家を幕吏に襲われ捕縛されました。
 捕縛の際の十手の乱打により、護送中に絶命したと伝えられています。

 本来、犯罪者は生捕りにするのが定法でしたが、抵抗もしない長英を撲殺したことは与力達の失態であり、報告書には長英が刀を振るって捕方に傷を負わせ、逃げることをあきらめて自ら咽喉(のど)を突き、それがもとで死亡したと云うことにされているそうです。、

 (十月)晦日(みそか)三廻り方(定廻り、臨時廻り、隠密廻り同心)にて踏入召捕候節手先三人江手疵(てきず)を為負(おわせ)逃去可申(もうすべき)処、押掛取押候得共、自身と抜持居候脇差にて咽(のど)を突候故・・・・・相果(あいはて)候。

 板橋村ゆかりの人々(2)−高野長英(2)

 玄洞宅は板橋宿本陣の目の前で、まことに大胆といえます。
 今は、板橋村仲宿56番15号の石神医院の石神三郎宅となっていますが、昔の人は全く腹が座っていたものですねえ。

 おしまい

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Posted by 嘉穂のフーケモン at 23:47│Comments(0)板橋村ゆかりの人々
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