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2011年06月26日

板橋村ゆかりの人々(10)ー後藤新平(1)

 板橋村ゆかりの人々(10)ー後藤新平(1)

 (旧暦5月25日)

 慶祝!500回達成。
 2004年11月の第1回投稿以来、苦節6年半。ついに目標の500回を達成しました。今後ともますますがんばりまっせ!
次の目標は1,000回ですが、何時になることやら・・・。

 さて、未曾有の大震災の復興に向けて、いま再び脚光を浴びているのが、台湾総督府民政長官、初代満鉄総裁、初代内閣鉄道院総裁、第7代東京市長を歴任し、関東大震災後には内務大臣兼帝都復興院総裁として東京の都市復興計画を立案した後藤新平(1857〜1929)です。

 大正12年(1923)9月1日午前11時58分32秒、神奈川県相模湾北西沖80km(北緯35.1度、東経139.5度)を震源として発生したマグニチュード7.9の大正関東地震による地震災害は、神奈川県を中心に千葉県、茨城県から静岡県東部までの内陸部と沿岸部の広い範囲に甚大な被害をもたらし、死者・行方不明10万5千余、家屋の全壊10万9千余棟、焼失家屋21万2000余棟にものぼり、日本災害史上最大級の大災害となりました。

 地震の8日前に病死していた加藤友三郎(1861〜1923)首相に代わって、外務大臣内田康哉(1865〜1936)が内閣総理大臣臨時兼任として内閣を運営しましたが、震災の翌日に第2次山本権兵衛(1852〜1933)内閣が発足、内務大臣に就任した後藤新平は宮中での親任式を終えて帰邸すると、直ちに奥二階日本間の一室に籠もって、次のような帝都復興根本策を固めたと伝えられています。

 1. 遷都スベカラズ。
 2. 復興費ニ30億円ヲ要スベシ。
 3. 欧米最新ノ都市計画ヲ採用シテ、我国ニ相応シキ新都ヲ造営セザルベカラズ。
 4. 新都市計画実施ノ為メニハ、地主ニ断乎タル態度ヲ取ラザルベカラズ。


 かつて大正7年(1918)、寺内内閣の内務大臣として都市計画調査会を設立して今日の都市計画法と建築基準法(市街地建築物法)の基礎を築き、大正9年(1920)からは第7代東京市長として東京市政要綱(八億円都市計画)を提起し、大正11年(1922)には東京市政調査会を設立して地方自治・都市問題に関する調査研究活動に着手させ、近代社会の根本となる都市の創造に向かって日本を導こうとしていた後藤にとって、震災による帝都復興事業は正に時宜にかなった使命であったと思われます。

 そして5日後の閣議に、「帝都復興ノ議」を提出しています。

 東京ハ帝国ノ首府ニシテ国家政治ノ中心、国民文化ノ淵源タリ。従テ其ノ復興ハ啻(ただ)ニ一都市ノ形態回復ノ問題ニ非ズシテ実ニ帝国ノ発展、国民生活改善ノ根基ヲ形成スルニ在リ。サレバ今次ノ震災ハ帝都ヲ化シテ焦土ト成シ、其ノ惨害言ウニ忍ビザルモノアリト雖モ、理想的帝都建設ノ為真ニ絶好ノ機会ナリ。此ノ機ニ際シ宜シク一大英断ヲ以テ帝都建設ノ大策ヲ確立シ之ガ実現ヲ期セザルベカラズ。躊躇逡巡此ノ好機ヲ逸センカ国家永遠ノ悔ヲ遺スニ至ルベシ。因(より)テ茲(ここ)ニ臨時帝都復興調査会ヲ設ケ、帝都復興ノ最高政策ヲ審議決定セシメントス。
 臨時帝都復興調査会ノ組織大要左ノ如シ。
  総裁  内閣総理大臣
  委員  一 国務大臣
      二 枢密院議長
      三 内閣総理大臣若ハ国務大臣タル礼遇を賜リタル者
      四 国務大臣タリシ者又ハ親任官中ヨリ勅命セラレタル者
      五 学識経験アル者ヨリ勅命セラレタル者
 帝都復興ノ大方針ヲ決定スルコト。即(すなわち)
  (イ) 復興ニ関スル特設官庁ノ新設
  (ロ) 復興ニ関スル経費支弁ノ方法
  (ハ) 罹災地域ニ於ケル土地整理策等
 此等ノ問題ニ関スル腹案左ノ如シ。
 (一) 帝都復興ノ計画及執行ノ事務ヲ掌(つかさど)ラシムル為メ新タニ独立ノ一機関ヲ設クルコト。其ノ組織大要左ノ如シ。
  (イ) 復興計画局
    一 都市ノ復興計画ニ関スル事務
    二 都市計画法ノ施行ニ関スル事務
  (ロ) 建築事務局
    一 諸官庁舎ノ建築ニ関スル事務
  (ハ) 建築監査局
    一 建築物法ノ施行ニ関スル事務
  (ニ) 土地整理局
    一 震災地域ノ土地整理ニ関スル事務
  (ホ) 救護局
    一 罹災民ニ対スル衣食救護ニ関スル事務
    二 家屋ノ建築並(ならび)ニ供給ニ関スル事務
  (ヘ) 財務局
    一 帝都建設ノ為メニ要スル経費其ノ他財務ニ関スル事務
 右ノ外(ほか)帝都復興計画調査会ヲ設ケ、復興計画ニ関スル当局ノ諮問機関トスルコト。其ノ組織大要左ノ如シ。
  会長
  委員 (一) 関係各省官吏
     (二) 関係地方長官
     (三) 関係市長
     (四) 学識経験者
 (二) 帝都復興ニ要スル経費ハ原則トシテ国費ヲ以テ支弁スルコト。而シテ之ニ充 
  当スル財源ハ長期ノ内外債ニ依ルコト。
 (三) 罹災地域ノ土地ハ公債ヲ発行シテ此ノ際之ヲ買収シ、以テ土地ノ整理ヲ実行 
  シタル上必要ニ応ジテ更ラニ適当公平ニ其ノ売却又ハ貸付ヲ為スコト。

 この第三項が、世間を驚倒せしめた「焼土全地買上案」でした。
しかし、他の閣僚たちはこれに賛成の決断を下す者はなく、第一項の復興機関の新設と第二項の国費支弁は閣議決定されましたが、第三項の全地買上案はなお研究課題として留保されることになりました。

 当時の国民の間には、東京に再び帝都を再建することへの疑問が湧いていたと云います。
 その遷都論の理由は、下記のような点が上げられていました
 1. 百年毎ニ大地震ヲ免レザルコト
 2. 国防上不適当ナルコト
 3. 帝国ノ版図全体ヨリ見テ其ノ地位不適当ナルコト
 4. 大都市発展ノ将来ニ鑑ミ不適当ナルコト


 しかしながらこの非常の際、遷都論を一蹴して帝都の趨くべき方向を国民に明示し、民心を導いていく方策を模索していた山本首相は、袞龍(こんりょう)の袖に隠れる(天子の威徳の下にかくれて勝手にふるまう)との批判を恐れずに、詔勅の渙発を仰ぐことを決心します。

 関東大震災直後ノ詔書(大正12年9月12日)

 朕神聖ナル祖宗ノ洪範ヲ紹(つ)キ光輝アル國史ノ成跡ニ鑑ミ皇考中興ノ宏謨(こうぼ)ヲ継承シテ肯(うべない)テ愆(あやま)ラサラムコトヲ庶幾(しよき)シ夙夜(しゆくや)兢業(けうげふ)トシテ治ヲ図リ幸ニ祖宗ノ神祐ト國民ノ協力トニ頼リ世界空前ノ大戦ニ処シ尚克ク小康ヲ保ツヲ得タリ


 奚(いずくん)ソ図ラム九月一日ノ激震ハ事咄嗟ニ起リ其ノ震動極メテ峻烈ニシテ家屋ノ潰倒男女ノ惨死幾万ナルヲ知ラス剰(あまつさ)ヘ火災四方ニ起リテ炎燄(えんえん)天ニ冲(のぼ)リ京浜其ノ他ノ市邑一夜ニシテ焦土ト化ス此ノ間交通機関杜絶シ為ニ流言蜚語盛ニ伝ハリ人心洶々(けふけふ)トシテ倍々(ますます)其ノ惨害ヲ大ナラシム之ヲ安政当時ノ震災ニ較フレハ寧(むし)ロ凄愴(せいそう)ナルヲ想知セシム
朕深ク自ラ戒慎シテ已マサルモ惟(おも)フニ天災地変ハ人力ヲ以テ予防シ難ク只速ニ人事ヲ尽シテ民心ヲ安定スルノ一途アルノミ凡ソ非常ノ秋(とき)ニ際シテハ非常ノ果断ナカルヘカラス若シ夫レ平時ノ条規ニ膠柱(かうちう)シテ活用スルコトヲ悟ラス緩急其ノ宜(よろしき)ヲ失シテ前後ヲ誤リ或ハ個人若(もしく)ハ一会社ノ利益保障ノ為ニ多衆災民ノ安固ヲ脅スカ如キアラハ人心動揺シテ抵止スル所ヲ知ラス朕深ク之ヲ憂惕(いうてき)シ既ニ在朝有司ニ命シ臨機救済ノ道ヲ講セシメ先ツ焦眉ノ急ヲ拯(すく)フテ以テ恵撫(けいぶ)慈養ノ実ヲ挙ケムト欲ス

 
抑モ東京ハ帝國ノ首都ニシテ政治経済ノ枢軸トナリ國民文化ノ源泉トナリテ民衆一般ノ瞻仰(せんごう)スル所ナリ一朝不慮ノ災害ニ罹(かか)リテ今ヤ其ノ旧形ヲ留メスト雖(いへども)依然トシテ我國都タル地位ヲ失ハス是ヲ以テ其ノ善後策ハ独リ旧態ヲ回復スルニ止マラス進ンテ将来ノ発展ヲ図リ以テ巷衢(こうく)ノ面目ヲ新ニセサルヘカラス惟(おも)フニ我忠良ナル國民ハ義勇奉公朕ト共ニ其ノ慶ニ頼ラムコトヲ切望スヘシ之ヲ慮(おもんぱか)リテ朕ハ宰臣ニ命シ速ニ特殊ノ機関ヲ設定シテ帝都復興ノ事ヲ審議調査セシメ其ノ成案ハ或ハ之ヲ至高顧問ノ府ニ諮(と)ヒ或ハ之ヲ立法ノ府ニ謀リ籌画(ちうくわく)経営万遺算ナキヲ期セムトス

 在朝有司能ク朕カ心ヲ心トシ迅(すみやか)ニ災民ノ救護ニ従事シ厳ニ流言ヲ禁遏(きんあつ)シ民心ヲ安定シ一般國民亦能ク政府ノ施設ヲ翼(たす)ケテ奉公ノ誠悃(せいこん)ヲ致シ以テ興國ノ基ヲ固ムヘシ朕前古(ぜんこ)無比ノ天殃(てんおう)ニ際会シテ䘏民(じゆつみん)ノ心愈々(いよいよ)切ニ寝食為ニ安カラス爾(なんじ)臣民其レ克(よ)ク朕カ意ヲ体セヨ

 
 (前略)

 そもそも東京は、帝国の首都にして政治経済の枢軸となり、国民文化の源泉となって民衆一般の敬い慕うところである。一朝不慮の災害に罹っていまやその旧形を留めていないとはいえ、依然としてわが国都の地位を失わない。このためその善後策は単に旧態を回復するに止まらず、進んで将来の発展を図り、もって街の面目を新たにせねばならない。
 思うにわが忠良なる国民は義勇をもって公に奉じ、私(朕)と共にその余慶に頼ることを切望するであろう。これを思って私(朕)は、宰相に命じて速やかに特殊な機関を設定し、帝都復興のことを審議調査させ、その成案は、あるいは至高顧問の府に諮り、あるいは立法の府に謀り、計画経営に万事違算のないように期そうとしている。
 在朝の役人は能く私(朕)の心を心とし、迅速に罹災民の救護に従事し、流言を厳しく禁圧し、民心を安定させ、一般国民またよく政府の施策を助けて奉公のまごころをつくし、もって興国の基礎を固めよ。私(朕)は前古無比の天災に際会して民衆をあわれむ心がいよいよ切となり、そのために寝食も安らかでない。汝臣民よ、能く私(朕)の意を心に留めて守りなさい。

 つづく


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Posted by 嘉穂のフーケモン at 13:33│Comments(0)板橋村ゆかりの人々
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