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2005年12月04日

板橋村ゆかりの人々(1)−高野長英(1)

 板橋村ゆかりの人々(1)−高野長英(1)

 高野長英像 渡辺崋山の弟子、椿椿山により天保前半期に描かれる。奥州市立高野長英記念館蔵、重要文化財。

 (旧暦11月3日)

 天保8年(1837)6月28日、安房大房(たいぶさ)沖(千葉県富浦町)に姿を現した3本マストの大型帆船は浦賀沖へと進んで行きましたが、浦賀奉行の異国船打払令に基づく発砲命令により砲撃され、沖へと退いていきました。
 
 この船は、アメリカのオリファント商会(Olyphant & Co.)に所属する商船モリソン号で、マカオで保護されていた尾張の難破漂流民岩吉、久吉、音吉と肥前の難破漂流民庄蔵、寿三郎、熊太郎、力松の7名を乗せていました。そしてモリソン号の来航の目的は、これらの漂流民を日本に送り届け、併せて通商を求めようとしていたものでした。
 翌年、オランダ商館長グランディソンからこのことを知らされた幕府では、モリソン号の再びの来航に備え協議を重ねていましたが、結論は、前回と同様に砲撃を行い撃退するというものでした。

 これに先立つ12年前の文政8年(1825)、幕府は、「無二念打払セ、見掛図ヲ不失様取計候処、専要之事ニ候」との触書を出し、日本沿岸に近づく外国船に対してはすべて打ち払うべきことを命じていました。

 天保8年(1837)10月、紀州和歌山藩の藩医遠藤勝助が主宰する尚歯会(洋学研究集団南蛮学社)の例会に出席し、会友の幕府評定所記録方芳賀市三郎から漏らされたモリソン号に対する幕府の方針を聞いて深い憂いを覚えた瑞皐(ずいこう)高野長英(1804〜1850)は、「戊戌夢物語」を著して幕府の外国船打払令を穏やかに警告し、モリソン号が再び来航した際には漂流民を受け取り、鎖国政策により通商は開けない旨の事情を諭して穏やかに退去させるべきであると説きました。
 彼ヨリ願出候(そうろう)義ハ一旦御聞届被遊(あそばされ)候テ、偖(さ)テ交易ト云所ニ至リテハ国初ヨリ御規定之御嚴シク仰(おおせ)渡サレ断然御制禁ノ旨仰(おおせ)渡サレ候ハゝ我ニ於テ仁義不失(うしなわず)彼ニ於テモ又イカントモ致(いたす)ヘキヤウ無限(かぎりなく)モ憤(いきどおり)モ仕マシク萬事平穩ニ事済可申(もうすべき)義ト御存候(ぞんじおりそうろう)。

 彼より願い出たことは一応お聞き届けになり、交易のことが問題になった段階で、鎖国の方針を厳しく申し渡し、断固として交易禁制の趣旨を伝えるならば、我が方では仁義の名を失わず、彼においては如何ともしがたく、腹を立てるわけにもまいりますまい。こうして何事も穏やかに結着することになると考えられます。

 高野長英は、仙台藩の支藩、陸奥水沢藩16,000石の留守氏(水沢伊達氏)に仕える後藤実慶の3男として生まれ、14歳のとき母方の伯父の医者高野玄斉の養子となりました。
 後の台湾総督府民政長官、初代満鉄総裁にして逓信、内務、外務の各大臣を歴任し、第7代東京市長、関東大震災直後には再び内務大臣としてとして震災復興計画を立案した後藤新平(1857〜1929)は、遠縁に当たります。

 文政3年(1820)江戸に出て蘭方医杉田玄白(1733〜1817)の養子の杉田伯元に学び、次いで蘭方内科医として聞こえた加賀藩医吉田長淑に師事しました。
 
 文政8年(1825)22歳で長崎に遊学し、フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト (Philipp Franz von Siebold、1796〜1866)が開設した鳴滝塾に学び、オランダ語と蘭方医学の修得に努めています。
 翌文政9年(1826)には「鯨魚及び捕鯨に就きて」という論文でシーボルトからドクトルの称号を受けました。

 以下つづく

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Posted by 嘉穂のフーケモン at 17:28│Comments(0)板橋村ゆかりの人々
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