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2017年09月10日

奥の細道、いなかの小道(32)− 越後路(2)

    奥の細道、いなかの小道(32)− 越後路(2)

    向井去來(1651〜1704)

    (旧暦7月23日)

    去來忌
    江戸前期の俳人向井去來(1651〜1704)の寶永元年(1704)旧暦九月十日の忌日。 蕉門十哲の一人で、儒医・本草学者の向井元升
    (1609〜1677)の次男として肥前国 (長崎市興善町)に生まれる。陰陽道などの学をもって堂上家に仕え、貞享年間 (1684~1688) 頃、寶井其  
    角(1661〜1707)を介して芭蕉に入門。洛西嵯峨野の落柿舎に住み、元禄四年 (1691) 年、芭蕉はここで『嵯峨日記』を執筆した。同年、野沢凡兆
    (1640〜1714)と共に、蕉風の代表句集「猿蓑」を編纂した。篤実な人柄で同門の人々にも尊敬され、芭蕉も最も信頼して「鎮西の俳諧奉行」といっ
    たという。

        秋風や白木の弓に弦はらん
        湖の水まさりけり五月雨
        をととひはあの山越つ花盛り
        尾頭のこころもとなき海鼠哉
        螢火や吹とばされて鳰の闇
        鳶の羽も刷ぬはつしぐれ
        應々といへど敲くや雪の門
        岩鼻やここにもひとり月の客


    奥の細道、いなかの小道(31)− 越後路(1)のつづき

        ○五日 朝迄雨降ル。辰ノ上刻止。出雲崎ヲ立。間モナク雨降ル。至ニ柏崎ニ、天や彌惣兵衛へ彌三良状届、宿ナド云付ルトイヘドモ、不 
            快シテ出ヅ。道迄両度人走テ止、不止シテ出。小雨折々降ル。申ノ下尅、至ニ鉢崎 。宿たわらや六郎兵衛。
                『曾良旅日記』


    旧暦七月五日(陽暦八月十九日)、昨夜からの雨が止んだので、芭蕉翁一行は辰ノ上刻(午前八時頃)、柏崎へ向かって出立しました。
    北國街道は海沿いに続き、石地、長磯の集落を過ぎると、前歩に海に突き出した観音崎が見えます。岬の南側の坂を下ったところが椎谷で、遠くに越後富士と称される三角形の米山(標高993m)が望まれます。

    当時の椎谷は、上総八幡藩一萬石初代藩主堀直良(1643〜1691)の領地でした。椎谷から宮川、大湊、荒濱の間の二里半ほどの海浜は「越の高濱」と呼ばれ、特に大湊から荒濱にかけては、標高70mを超す有数の大砂丘であったそうです。

    芭蕉翁一行は雨の中を九里程歩いて、申ノ下尅(午後四時頃)に柏崎に着き、天屋彌惣兵衞邸を訪ね、象潟で知り合った美濃の國の商人宮部彌三郎(俳号は低身)の紹介状を示して、一夜の宿を請いました。
    しかし、天屋彌惣兵衞に不愉快な扱いを受けた芭蕉は、激怒して彌惣兵衞邸を出て行ってしまいました。後で俳人芭蕉であることに気づいたのか、使用人が二度も追いかけてきて不手際を詫びましたが、芭蕉はそのまま雨の降る中を次の宿場の鉢崎へ歩いて行ってしまいました。

    天屋は柏崎の大庄屋で、本姓は市川氏、当主の彌惣兵衛は江戸前期の歌人、俳人北村季吟(1625〜1705)門下の俳人で笑哉と称していました。

    奥の細道、いなかの小道(32)− 越後路(2)

    天保國繪圖    越後國    高田長岡領
 
    柏崎は北國街道の宿場町だけでなく、北前船の寄港地や小千谷や十日町といった内陸部との間に高田街道が延びる交通の要衝として繁栄していました。
    高田藩の所領以降は白河藩、桑名藩と変遷しましたが、領主は松平越中守の代々支配が変わらず、享保元年(1741)、大久保には陣屋が設けられ、領内221カ村の総支配所として柏崎は周囲の行政的な中心地ともなっていきました。

    一行は柏崎の街を西へ向かい、鵜川に架かる橋を渡って鯨波を通り、海岸沿いの道を進んで青海川の深い渓谷を渡り、笠島集落を過ぎると米山峠にさしかかります。下り上りを繰り返して上輪の亀割坂を越え、聖ヶ鼻のあたりから坂を下ると鉢崎(柏崎市米山町)で、入口には関所がありました。一行は小雨の降る中を、柏崎からさらに四里程歩いて、酉の刻(午後六時頃)、俵屋六郎兵衛という旅籠に投宿しました。

    一行は出雲崎から十三里弱も歩き、おくの細道行脚の中では最長の歩行距離を踏破しました。なお、俵屋は代々庄屋で、三百年以上も前から鉢崎で栄えた旧家でしたが、今はその跡は空き地になり、たわら屋跡の標注が立つのみになっています。

        ○六日 雨晴。鉢崎ヲ昼時、黒井ヨリスグニ濱ヲ通テ、今町へ渡ス。聴信寺へ彌三状届。忌中ノ由ニテ強テ不止、出。石井善次良聞テ人ヲ 
            走ス。不レ歸。及再三、折節雨降出ル故、幸ト歸ル。宿、古川市左衛門方ヲ云付ル。夜ニ至テ、各來ル。発句有。

        ○七日 雨不レ止故、見合中ニ、聴信寺へ被レ招。再三辞ス。強招クニ及暮。 昼、少之内、雨止。其夜、佐藤元仙へ招テ俳有テ、宿。夜中、風雨
            甚。
                『曾良旅日記』


    旧暦七月六日(陽暦八月二十日)、昨日は出雲崎から鉢崎まで十三里弱の長距離を歩いた芭蕉翁一行は、雨が降っていたので晴れるのを待って俵屋で休養し、昼時に今町(直江津)へ向かって出立しました。
 
    一行は北國街道を南下して行きましたが、このあたりは往時、さい濱と呼ばれた砂礫の悪路で、土地の人々は歯のない下駄を履いて歩いたといいます。
 柿崎、上下濱、潟町、荒濱を過ぎて黒井宿では、旅籠の傳兵衞方で休憩しました。
 
    黒井宿を出て関川を舟で渡ると、今町(直江津)に着き、宿所と予定していた浄土真宗大谷派の聴信寺を訪ね、美濃の國の商人宮部彌三郎の紹介状を示しましたが、住持は「忌中」を理由に宿泊を拒みました。

    芭蕉らは強いて頼まずに寺を出たところで、其れを聞いていた石井善次郎という人が寺と交渉してくれ、さらに人を走らせて、今町で泊まるように再三にわたり引き止めました。曾良は「不レ歸」と強い怒りを現していますが、折節雨が降ってきたので、寺近くの古川市左衛門宅(旅籠松屋)に泊まることになりました。

    夜になって今町の聯衆が松屋に集まり、さっそく俳筵興行が開催され、芭蕉は七夕の前日を意識した発句を披露しましたが、二十句で終了し、「歌仙」(三十六句)は満尾しませんでした。

            文月や六日も常の夜には似ず     はせを

    この俳筵に参加した義年は旅籠松屋の主人古川市左衛門で、芭蕉らの宿泊を断った忌中のはずの聴信寺の住持眠鴎も同座していました。
 
    翌旧暦七月七日(陽暦八月二十一日)、この日は七夕の日でしたが、朝から雨でした。芭蕉翁一行は、雨が止まないので出立を見合わせていると、忌中のはずの聴信寺から招待されました。
    曾良は「再三辞ス」と記していますが、強く招かれたので仕方なく赴き、夕刻まで聴信寺に滞在してしまいました。

    この夜、地元の俳人で医師の佐藤右雪宅に招かれ、右雪の
            星今宵師に駒ひいてとゞめたし
を発句に、曾良、芭蕉、棟雪(細川春庵)、更也(鈴木與兵衛)らで五吟歌仙興行が開催されましたが、完結しませんでした。この夜、一行は佐藤右雪宅に一泊しましたが、夜中は風雨が激しく打ち付けていました。
 
        ○八日 雨止。欲レ立。強テ止テ喜衛門饗ス。饗畢、立。未ノ下剋、至ニ高田一。細川春庵ヨリ人遣シテ迎、連テ來ル。春庵へ不レ寄シテ、先、
            池田六左衛門ヲ尋。客有。寺ヲかり、休ム。又、春庵ヨリ状來ル。頓テ尋。発句有。俳初ル。宿六左衛門、子甚左衛門ヲ遣ス。謁ス。
 
        ○九日 折々小雨ス。 俳、歌仙終。
 
        ○十日 折々小雨。中桐甚四良へ被レ招、歌仙一折有。夜ニ入テ歸。夕方ヨリ晴。
                『曾良旅日記』


    旧暦七月八日(陽暦八月二十二日)、朝になって雨が上がり、一行は今町を出立して高田へ向かおうとしていましたが、石塚喜衛門(左栗)に強く引き止められ、別れの馳走を相伴しました。

    饗応が済んで出立の際、
            行く月をとゞめかねたる兎哉             此竹
            七夕や又も往還の水方深く              左栗

との餞別句が贈られました。

    当時の高田は、相模小田原藩主で京都所司代を罷免された稲葉正往(正通:1640〜1716)が、貞享二年(1685)十二月に十万三千石で移封されて再び高田藩を立藩してより三年余でした。
    北國街道はその政策上、高田城下を通過するようになっており、また、この先の越中との国境に設けられた市振関所は高田藩が所管しており、通過するには通行手形をもらう必要がありました。

    芭蕉翁一行が高田に赴いた理由は、通行手形を貰う必要と医師で俳人の細川春庵の招待があったからでした。

    一行は今町から北国街道を南下して、木田、木田新田、藤新田を経て、未ノ下剋(午後三時頃)に高田に到着しました。
    細川春庵から使いの人が迎えに来ましたが、寄大工町の春庵宅には寄らずに、宿を頼むことになっていた池田六左衛門(俳諧を嗜む町年寄)宅に赴いたところ、来客があり、やむなく近くの寺で休息しました。そこに細川春庵より書簡が届いたので、春庵宅を訪ねました。

    奥の細道、いなかの小道(32)− 越後路(2)

    天保國繪圖    越後國    高田領

    春庵宅で草鞋を脱ぐと、地元の俳人鈴木與左衛門(俳号は更也)を交えて四吟歌仙を開催し、芭蕉の発句を春庵への挨拶として
            藥欄にいづれの花をくさ枕       翁
の句で興行が始まりました。

    藥欄は薬草園のことで、芭蕉は挨拶として春庵の薬草園の花を褒めただけではなく、其れが病気を治す薬草であり、春庵が医師であることの安心の気持ちを上品な洒落を込めて表したのであると解説されています。

    その後、宿所と決めていた池田六左衛門が、息子の甚左衛門を使いによこしたので面会し、春庵宅に泊めてもらうからと宿所を断り、息子を帰しました。

    翌旧暦七月九日(陽暦八月二十三日)は、一日中小雨が降ったり止んだりしていました。
    曾良は、「俳、歌仙終。」と記していますが、『俳諧書留』には後続の句が記載されておらず、四吟歌仙は満尾しなかったものと解されています。

    旧暦七月十日(陽暦八月二十四日)、この日も時々小雨が降りましたが、夕方から晴れました。中桐甚四良(詳細不明)宅に招かれ歌仙一折(未詳)があったと云いますが、句は残されていません。夜になって、池田六左衛門宅へ帰りました。

    ちなみに、昔は歌仙を懐紙二枚に書き留め、一枚目を初折、二枚目を名残の折とか後(のち)の折と呼んだそうです。
    懐紙を折り、両面に句を書き留めますが、二枚あるので四面となり第一面を初折の表、第二面を初折の裏、二枚目の第三面を名残(後)の表、第四面を名残(後)の裏と呼びました。

    芭蕉翁一行は今町に二泊、高田に三泊し、越後路においては一番長い滞在でしたが、度重なる歌仙は満尾できず、今町や高田における芭蕉の足跡は印象の薄いものになっています。
        ○十一日 快晴。暑甚シ。巳ノ下尅、高田ヲ立。五智・居多ヲ拝。名立ハ状不レ届。直ニ能生ヘ通、暮テ着。玉や五良兵衛方ニ宿。月晴。
                『曾良旅日記』


    旧暦七月十一日(陽暦八月二十五日)、快晴で暑さが甚だしい日でしたが、芭蕉翁一行は巳ノ下尅(午前十時頃)、高田を出立して名立へ向かいました。一行は高田城下を出て北国街道を北上し、木田新田の追分で左折して加賀街道を北上し天台宗の五智國分寺に参詣しました。

    当時、高田の木田新田の追分から三方向、どちらに行っても、みな北國街道だったので、善光寺、信濃追分方面へ行く道を善光寺街道、柏崎や出羽方面への道を奥州街道、そして越中や加賀方面への道を加賀街道と呼んで区別したといいます。

    奥の細道、いなかの小道(32)− 越後路(2)



    五智國分寺は安國山華藏院と號し、本尊は五智如来(大日、釈迦、寶生、藥師、彌陀の五体)で、第四十五代聖武天皇(在位:724〜749)の発願により、天平十三年(741)三月、国ごとに國分寺、國分尼寺が建立され、越後國の國分寺も建てられましたが、その場所については不明でした。

    しかし、長享二年(1488)十月、京都相國寺の僧萬里集九(1428〜没年不詳)がこの寺を訪れたことを、その著『梅花無盡藏』に書いています。

                越之後州國分寺五智梁上有一面琵琶。盖白盲祈而得明眼。掛之於佛前。爲靈兆云。
                堂宇如山冠海涯
                如來盛五寶蓮華
                白盲聞昔得明眼
                梁上至今留琵琶
                        『梅花無盡藏』巻三 上 越之後州國分寺


                越之後州の國分寺の五智(如來)の梁上に、一面の琵琶有り。盖し、白盲祈りて明眼を得、之を佛前に掛くと、靈兆と爲  
                して云ふ。
                堂宇は山の如く、海涯に冠たり
                如來、五寶の蓮華を盛る
                白盲、昔、明眼を得たりと聞く
                梁上、今に至るも琵琶を留む

 
    当時の國分寺は海岸沿いに建っていたと云うことです。その後、永禄五年(1562)、春日山城主上杉謙信(1530〜1578)が臨済宗の圓通寺跡(現在地)に移建し、以後、養嗣子上杉景勝(1556〜1623)や江戸幕府の庇護を受けました。

    國分寺の山門を出て、30mほど道なりに行って右に下ると、越後一宮居多神社があり、大國主命、奴奈川姫、建御名方命、亊代主命が祭神として祭ってあります。

    建永二年(1207)、淨土眞宗の開祖親鸞聖人が京をを追われて越後國國府に配流となった時、居多神社に参拝して詩を詠み、神前に供えたところ、一夜にして境内の芦が片葉になったという、親鸞聖人越後七不思議「片葉の芦」の伝説が残されています。
    南北朝時代(1336〜1392)以降は、守護上杉氏からの崇敬を受けて越後国の一宮に位置づけられたとされています。

    芭蕉翁一行は、居多神社に参拝したのち居多ヶ濱に出て加賀街道を西進し、鄕津、長濱、丹原、鍋ヶ浦、吉浦、茶屋ヶ原を経て鳥ヶ首岬を過ぎ、名立に至りました。

    一行は当初、名立の宿に泊まる予定でしたが、高田からの紹介状がまだ届いていなかったので、一気に能生の宿場へ急ぎました。

    名立てを通過し、海岸沿いに加賀街道を進んで筒石、藤崎、百川を経て能生までは二里弱あまり、日が暮れてから能生の旅籠玉屋五郎兵衛宅に着きました。当時の能生は東西に長く続く、加賀藩参勤交代の宿場町でもありました。

    能生の宿場に入ってすぐ左手に白山神社があり、祭神は大國主命、奴奈川姫、伊弉諾尊であり、第十代崇神天皇の御代に創建されたという古社で、奈良時代に越前國白山を開山したと伝えられる修験道の僧泰澄(682〜767)が、当社を崇敬して仏像を安置し、白山権現に改めたとされています。

   この神社の社務所前に、「越後能生社汐路の名鐘」の大きな石碑があり、芭蕉の俳文と句が刻まれています。

            むかしより能生社にふしきの名鐘有。これを汐路の鐘といへり。いつの代より出來たる事をしらす。鐘の銘ありしかと幾代の汐風に吹
            くされて見へさりしを、常陸坊の追銘とかや。此鐘汐の滿來らんとて、人さはらすして響こと一里四面。さる故に此浦は海士の兒まて
            も自然と汐の滿干を知り侍りしに、明應の頃燒亡せり。されともその殘銅をもつて今の鐘能登國中居浦鑄物師某鑄返しけるとそ。
            猶鐘につきたる古歌なとありしといへとも、誰ありてこれを知る人なし。
                    曙や霧にうつまくかねの聲  芭蕉

   
    汐路の鐘は現存しており、高さ約二尺一寸、横徑約一尺九寸、上部の龍頭は破損しており、鐘面には次のような銘があります。

            越後國泥川保内                延寶八大雪之節損
            能生山泰平寺鐘                其後鑄掛
            神物幷時講衆奉加也                      旹元文五庚申天
            旹明應八年己未                願主春日山住
                七月吉日               岡本庄助
            能登國中居浦                     冶工藤原氏柏崎住
            大工藤原國次                     荒井藤右衛門
            次郎左衛門尉                     白山別當
                        寶光院現住
                                快隆代


    鐘の周囲の銘文によると、この鐘は白山権現の別當能生山泰平寺の鐘で、明応八年(1499)能登國仲居浦(現穴水町)で鋳造され、延寶八年(1680)大雪の為に破損するも、元文五年(1740)柏崎で鋳直された事が知れます。
 
            ○十二日 天気快晴。能生ヲ立。早川ニテ翁ツマヅカレテ衣類濡、川原暫干ス。午ノ尅、糸魚川ニ着、荒ヤ町、左五左衛門ニ休ム。
                大聖寺ソセツ師言傳有。母義、無事ニ下着、此地平安ノ由。申ノ中尅、市振ニ着、宿。
                            『曾良旅日記』


    旧暦七月十二日(陽暦八月二十六日)、快晴の天気の下、芭蕉翁一行は北國街道最大の難所である親不知子不知を一気に越すために能生を出立し、市振へ向かいました。
    能生から海岸沿いの北國街道を南下しますが、糸魚川まではいくつかの川があり、徒歩で渡らなければなりませんでした。梶屋敷の直前、早川の急流を徒歩で渡っている途中、芭蕉はつまずいて転倒し、ずぶ濡れになってしまったので、渡ってから川原で衣類を脱いで乾かしました。早川を渡り、竹ヶ花から海川を渡ると糸魚川の街並みに入ります。

    糸魚川は越中との国境に近く、信濃国大町、松本に通じる千国街道の起点として、塩・海産物などの輸送が盛んであり、また軍事的拠点として重要視された交通の要衝でした。

    糸魚川は高田藩主越前松平家の時代(1619〜1680)には清崎城に城代が置かれていましたが、天和元年(1681)、藩主松平光長(在任:1624〜1681)の代に越後騒動と呼ばれる跡目相続問題によって糸魚川城代荻田本繁(1640〜1701)が八丈島へ配流になり、芭蕉らが訪れたときには幕府領となっていました。

    芭蕉翁一行は糸魚川の荒屋町の茶店佐五左衛門宅で休憩しましたが、その跡地は不明とのことです。この時、店主の佐五左衛門は、芭蕉翁一行が加賀大聖寺の全昌寺に立ち寄ると聞き、全昌寺の僧ソセツに「母が無事に糸魚川に帰り、糸魚川では皆、平安に暮らしている」との伝言を託されました。

    糸魚川の街を出ると直ぐに、北國街道随一の急流と云われる姫川を舟で渡り、田海の集落を抜けて田海川、青海川を徒歩で渡ると、大岩が重なり合ったところが駒返り、この先、三里半強が子不知・親不知の難所となります。

    飛騨山脈の北端が日本海によって浸食され、300〜400mほどの断崖となって海になだれ落ち、親不知の三町四十間と駒返りという地名を残す子不知五町は、晩秋から冬にかけ大波が激しく打ち寄せる時には通行が大変困難であったため、北國街道最大の難所となっていました。

    奥の細道、いなかの小道(32)− 越後路(2)

         天保國絵圖    越後國    高田長岡領    親不知

    地名の由来については、次のような伝説もあります。
    平安末期、壇ノ浦の戦い(1185)の後に助命された、平清盛(1118〜1181)の異母弟、池大納言平頼盛(1133〜1186)は、所領である越後国蒲原郡五百刈村で落人として暮らしていましたが、都に住んでいた妻はこのことを聞きつけて、夫を慕って二歳になる子を連れて京都から越後国を目指しました。しかし、途中でこの難所を越える際に、連れていた子供を波にさらわれてしまったために、悲しみのあまり、妻はその時のことを歌に詠みました。
                親しらず子はこの浦の波枕  越路の磯のあわと消え行く
    以後、その子供がさらわれた浦を「親不知」と呼ぶようになったということです。

            越中、越後の堺に親不知、子不知といふ處あり、北陸道第一の難處としてあまねく人のしる處也。越中立山の裾、北海へ張り出でたる
            處にて、市振といふ驛より歌村といふ處迄を、山の下と稱して、二里半あり。立山の裾なる故に斷巖絶壁にて、路徑も付けがた 
            きに、波打際を旅人通行する亊なり。一方は壁を立てたるごとき山、一方は大海なり。風無く波靜なる日は、旅人通行する道、幅七
            八間或は十間許あり。又、處によりて、半町一町もある處あり。然るに、風起り、波荒き時は、直に彼の絶壁の處へ、波打かけて通路
            なし。右二里半のうちに、一ヶ所、長さ五六町の間、別に道幅狭き處あるを、世に親不知、子不知といふ。甚だ難處にして、親も子を
            思ふいとまなし、といふ心より、土俗稱し來りたるなり。其の間絶壁の根に岩穴ありて、十間程づゝ置きて、其の穴いくつもあり。波
            の打ちよする時は、通行の人、此の穴へ走り入りて、波の引く時を見合わせて走り過ぎ、又、波來れば、次の穴に入りて是を避く。も
            し、北風強き時は、數日を經といへども、通行ならずといへり。
                (中略)
            扨此の親不知を過ぎて、山のふところに人家ある處を歌村と云ふ。又、波打際を行けば、駒返りと云ふ難處あり。此の處は波風無き
            といへども、常に山の根へ波打ちかけ、通行なりがたきゆゑに、絶壁の中半に岩を穿ちて、細き道をつ
            けたり。其の間纔かの處なれども、馬上なりがたき故に、駒返しと名づく、馬は兩方の驛より牽き來り、荷物は其の纔かの處を人夫に
            て送り越すことなり。歌村より一里半にして靑海といふ驛あり。此の處は山下を通ぬけて、少し廣みなり。市振より靑海まで四里の處
            難處にて、風波の時は、王侯の勢にても越ゆること成り難し。誠に一人是を守れば、萬夫も過ぐることあたはざる要害の地なり。故に
            市振は御領所にて關あり、往來の人を改む。他處と違ひ、一方は大海、一方は萬仞の高山、南の方へ數十里連り聳えたれば、廻りても
            通るべき道なし。天險とはかゝる處をいふべし。

            かほどの難處なれども、夏の天氣格別晴朗にして、風波靜かなる日は、道路に少しの高低もなく、糸を引きたるごとき波打際の亊なれ
            ば、難處ともしらず。只風景のよき處とのみ思ひて、通行する多しとなり。

                    僧 萬里
            波吼崖崩頑石欹(攲)          波は吼え崖は崩れて頑石攲(そばだ)つ
            傳聞父子不曾知                    傳へ聞く父子も曾て知らずと
            扶桑第一嶮難地                    扶桑第一の嶮難の地
            今日初嘗摩脚皮                    今日(こんにち)初めて嘗めて脚皮を摩す
                    (梅花無盡藏)
                    『東遊記』 十六 親不知 橘南谿



    芭蕉翁一行は、子不知・親不知の険しい海道を通り抜けて、申ノ中尅(午後五時頃)に市振の宿、旅籠桔梗屋(脇本陣)に着きました。

    夏の天気の良い日であったため、一行は難なく通過したためか、曾良も日記には、親不知子不知の難所については一言も触れていません。

    ということで、やっと市振に着きましたがな。ああ、しんど。

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Posted by 嘉穂のフーケモン at 20:08│Comments(0)おくの細道、いなかの小道
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