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2017年09月09日

奥の細道、いなかの小道(31)− 越後路(1)

    

      Artist's impression of the Milky Way.
      This detailed annotated artist’s impression shows the structure of the Milky Way, including the location of the spiral arms and other  components such as the bulge. This version of the image has been updated to include the most recent mapping of the shape of the central bulge deduced from survey data from ESO’s VISTA telescope at the Paranal Observatory.

   (旧暦閏7月19日)

    平成十九年(2007)五月十二日から始めた「奥の細道、いなかの小道」の旅は、十年経っても全行程の七割五分が終わった程度で、いつになったら終わるのか覚束なく、これからは精力的に取り組んで参る固い決意でございます。

      酒田の余波日を重て、北陸道の雲に望。遙々のおもひ胸をいたましめて加賀の府まで百卅里と聞。鼠の關をこゆれば、越後の地に歩行を改て、越中
      の國一ぶりの關にいたる。此間九日、暑湿の勞に神をなやまし、病おこりて亊をしるさず。
 
        文月や六日も常の夜には似ず 
        荒海や佐渡によこたふ天河


    酒田から百三十里彼方の加賀の府金澤を目指して旅立った芭蕉翁一行ですが、『おくのほそ道』本文には、その間の記載は越後路、一振、那古の浦の三章しかなく、「これは早く進むので楽勝か」と思いきや、『曾良旅日記』を参照すれば、鼠ヶ關、中村(北中)、村上、築地、新潟、彌彦、寺泊、出雲崎、柏崎、鉢崎(米山)、今町(直江津)、高田、能生、糸魚川、親不知、市振と越後路には実際には十五日間を要しており、全く「暑湿の勞に神をなやまし、病おこりて亊をしるさず。」と芭蕉翁が記したとおりの大変な道中であったのですねえ。

    ああ、しんど!

     ○廿七日 雨止。温海立。翁ハ馬ニテ直ニ鼠ヶ關被レ趣。予ハ湯本へ立寄、見物シテ行。半道計ノ山ノ奥也。今日も折々小雨ス。及レ暮、中村ニ宿
        ス。
          『曾良旅日記』


    旧暦六月二十七日(陽暦八月十二日)、出羽に別れを告げ、芭蕉翁は馬に乗って鼠ヶ關を目指しましたが、曾良は半里ほど山側の湯温海に立ち寄り見物することになりました。
    芭蕉翁は濱温海から海岸沿いに南下して、大岩川、小岩川、早田(わさだ)などの集落を経て、鼠ヶ關に到りました。

    念珠關は、白河關、勿来關と並んで奥州三古關の一つで、和銅五年(712)、出羽國念珠關村大字鼠ヶ關の鼻喰岩付近の要害の地に設置され、後に南の浦沢に、さらに江戸期になって現在地に移されています。

    江戸期には鼠ヶ關口留御番所と称し、鼠の印を用いていたと云います。關守は、慶長年間(1596〜1615)から代々佐藤氏がつとめ、元和八年(1622)、庄内藩主酒井氏が領有することになると、目付役と足軽二人、それに佐藤氏によって守られていました。なおこの関所には、唐船場や大筒場があって沖を航行する船も監視していたと云います。

    鼠ヶ關を過ぎて羽州濱街道を南下し、中濱、岩崎、府屋を経て勝木に至ると羽州濱街道は山間部に入り、勝木川に沿って上大藏、下大鳥、上大鳥、中津原を経て、中村に(北中)至ります。
    芭蕉翁一行は、暮れに及んで中村に到着しました。中村は、江戸時代には出羽街道と羽州濱海道の表裏二街道が合流する宿場であり、かなりの賑わいであったと云います。
 
      ○二十八日 朝晴。中村ヲ立、到蒲萄(名ニ立程ノ無レ難所)。甚雨降ル。追付止。申ノ上刻ニ村上ニ着、宿借テ城中へ案内。喜兵・友兵來テ逢。彦左
          衛門ヲ同道ス。
            『曾良旅日記』


    旧暦六月二十八日(陽暦八月十三日)、芭蕉翁一行は難所とされた葡萄峠を越えるために早朝に出立し、出羽街道を村上に向かいました。中村より大毎を経て半里ほどで大澤、ここから大澤峠を越えて矢向明神を過ぎ、さらに葡萄峠を越えて行きましたが、葡萄峠はそれほど険しい峠ではなかったようです。
    しかし、芭蕉翁一行が通過してから約百年後の天明六年(1786)三月、この地を訪れた京の儒醫橘南谿(1753〜1805)はその紀行『東遊記』の「葡萄嶺雪に歩す」の中で、以下のように記しています。

      抑此葡萄峠は羽越の界にて、山の間甚だ深く、雪中のみならず、四時とも旅人の難儀する所也。此峠昔強盗の出でて旅人あまた殺害し、今も往來
      の人の恐るる所也。
          『東遊記』の「葡萄嶺雪に歩す」 橘南谿

 
    葡萄峠を越え、葡萄の宿場から長坂峠を越えて緩やかな下り坂を下り、大須戸、旧宿場の塩野町、早稲田、板屋越、檜原、猿澤、鵜渡路の集落を経て、下中島で三面川の「お宮の渡し」を渡り、出羽街道の出口山辺里を抜けて三面川の支流門前川に架かる山辺里橋を渡ると、村上城下の片町に至ります。

    


    芭蕉翁一行は申ノ上刻(午後四時頃)、村上城下小町の旅籠大和屋久左衛門宅(井筒屋旅館)に草鞋を脱ぎました。曾良は旅籠に着くと、城代家老榊原帶刀邸に村上到着を知らせました。
    すると、旧知の喜兵衛(斎藤氏)、友右衛門(加藤氏)、彦左衛門(黒田氏)らが旅籠に来たので、榊原帶刀邸に挨拶のために出かけました。

    芭蕉翁一行が訪れた村上は、村上藩榊原氏十五萬石の城下町で、村上藩第二代藩主従五位下式部大輔勝乘(1675〜1726)はまだ十五歳であったため、入封することなく江戸藩邸(現首相官邸の場所)に居住しており、藩主の一族の榊原帶刀直榮(なおひさ)が城代家老として務めていました。
    榊原帶刀直榮は、徳川四天王の一人として名高い上野國初代館林藩主榊原康政(1548〜1606)の兄清政(1546〜1607)の家系から出ている家柄で、二千四百石を領していました。

    

        天保國繪圖    越後國    新發田村上領 

      ○廿九日 天気吉。昼時喜兵・友兵來テ(帶刀公ヨリ百疋給)、光榮寺へ同道。一燈公ノ御墓拝。道ニテ鈴木治部右衛門ニ逢。歸、冷麥持賞。未ノ下
          尅、宿久左衛門同道ニテ瀬波へ行。歸、喜兵御隠居ヨリ被レ下物、山野等ヨリ之奇物持參。又御隠居ヨリ重之内被レ下。友右ヨリ瓜、喜兵内
          ヨリ干菓子等贈。
            『曾良旅日記』


    翌旧暦六月二十九日(陽暦八月十四日)、前日に曾良が城代家老榊原帶刀に父君大學良兼の墓参を申しので、昼時に斎藤喜兵衛、加藤友右衛門が帶刀からの餞別金子百疋(1/4兩、約3万円程度)を持参し、ともに菩提寺の光榮寺に赴き墓参を行いました。

    城代家老榊原帶刀の父榊原大學良兼は伊勢長島藩初代藩主松平良尚(1623〜1696)の四男で、寛文九年(1669)、十五歳の時に一族の榊原外記直久の養嗣子となり、貞享四年(1687)七月二十九日に三十三歳で村上で没し、大乘院法岩一燈居士と諡され、榊原家の国附菩提寺光榮寺に埋葬されていました。

    河合曾良(1649〜1710)は、かつて伊勢長島の城主松平佐渡守良尚(後に康尚と改め、六十二歳の時致仕を許され全入と號す)の家士でした。榊原大學良兼は、曾良にとっては旧主家の嫡子でありました。曾良が、この旅で芭蕉に同行した理由のひとつがこの一燈への墓参だったと言われています。

    ちなみに曾良は天和元年(1681)頃に長島藩を致仕し、江戸に居を移して、天和二年(1682)に幕府神道方となった吉川惟足(1616〜1695)のもとで吉川神道を学び、延喜式、古事記、日本書紀、萬葉集などで国学の知識も身につけました。さらに地誌も学んだことにより、この学問が「おくのほそ道」の旅で最大限に発揮されたとされています。

    光榮寺墓参の帰り道に旧知の鈴木治部右衛門に出会い、宿で冷や麦の持て成しを受けました。
    未ノ下尅(午後二時半頃)、曾良らは宿の主人の久左衛門に案内されて、当時湊町として栄えていた瀬波へ出かけました。

    村上城下から瀬波への道は松並木八町といわれ、概ね半里、砂丘まで平坦な地が続き、瀬波は村上の別墅とされていました。その砂丘に立てば、全面に日本海が広がり、右手に粟島、左手に佐渡を望み、遠く海岸線の果てに彌彦、角田を眺め、松嶺を聴く景勝地でした。一行は、三面川河口に建つ多岐神社(祭神は多岐津島姫)を参詣したのかもしれません。

    一行が宿に帰ると、斎藤喜兵衛が御隠居からの下され物として「山野等ヨリ之奇物」を持参してきました。また、御隠居から重箱入りのご馳走が届けられました。この御隠居が誰であるかは不明とのことです。さらに、加藤友右衛門からは甘瓜、斎藤喜兵衛の内儀からは干菓子などが送られました。
 
      一 七月朔日 折々小雨降ル。喜兵・太左衛門・彦左衛門・友右等尋。喜兵・太左衛門ハ被レ見立。朝之内、泰叟院へ参詣。巳ノ尅、村上ヲ立。午ノ
          下尅、乙村ニ至ル。次作ヲ尋、甚持賞ス。乙寶寺へ同道、歸テつゐ地村、息次市良方へ状添遣ス。乙寶寺參詣前大雨ス。即刻止。申ノ上
          剋、雨降出。及レ暮、つゐ地村次市良へ着、宿。夜、甚強雨ス。朝、止、曇。
            『曾良旅日記』


    旧暦七月朔日(陽暦八月十五日)、曾良と旧知の斎藤喜兵衛、太左衛門(姓不詳)黑田彦左衛門、加藤友右衛門らが宿に訪れました。曾良たちは朝のうちに榊原家の菩提寺泰叟院へ参詣しました。

    泰叟院は歴代藩主の菩提寺で、享保二年(1717)に上野高崎藩から越後村上藩へ転封された間部詮房(1666〜1720)が村上で死去すると菩提寺である浄念寺に葬られ、墓碑と御霊屋が設けられています。
    間部詮房は、六代将軍徳川家宣(在任:1709〜1712)と七代将軍徳川家継(在任:1713〜1716)に仕え、所謂「正徳の治」を断行し側用人(老中格)などの幕府要職を歴任しましたが、八代将軍に徳川吉宗(在任:1716〜1745)が就任すると政争に破れ、事実上の左遷として村上藩に配されています。
 
    芭蕉翁一行は斎藤喜兵衛、太左衛門(姓不詳)らに見送られて、巳ノ尅(午前十時頃)に村上を出立し、築地へ向かいました。途中、岩船三日市の岩船神社に参詣したものと思われていますが、定かではないようです。
    岩船神社は延喜式の磐舟郡八座の筆頭に記されており、祭神は岩船社としての饒速日命(にぎはやひのみこと)、貴船社としての罔象女神(みつはのめのかみ)、高靇神(たかおかみのかみ)、闇靇神(くらおかみのかみ)の四神と云うことです。

    一行は、石川に架かる明神橋を渡り、松林の中のお幕場道を抜けて、岩船、北新保を経て塩谷に出ました。ここから荒川を舟で渡ると桃崎濱で、北國濱街道は日本海の海岸に沿って新潟に伸びていますが、芭蕉翁一行は濱街道から離れ、まっすぐに南下して乙(きのと)村の次作という者を訪ねました。

    次作がどのような人物であったかは不明ですが、一行を大変歓待し、その後、次作の案内で乙寶寺に参詣しました。

    

    北國一覧寫    蒲原郡乙村乙寶寺    天保二年(1831)    長谷川雪旦(1778~1843)
 
    乙寶寺は天平八年(736)、第四十五代聖武天皇(在位:724〜749)の勅願を受けて行基菩薩(668〜749)と婆羅門僧正の菩提僊那の二人の高僧によって開山されましたが、その際に釈尊の両眼の舎利を請来した菩提僊那が、右目の舎利は中国の寺に、左目の舎利は当寺へと甲乙に分けて供養したことから、彼の国の寺は「甲寺」、此の国の寺は「乙寺」と名付けられたとの伝承です。

    その後、後白河院(1127〜1192)より舎利を奉安する金の宝塔を賜り、併せて「寶」の一文字を与えられ爾来、乙寶寺と名前を変えて現在に至っています。一山に一千の僧坊があり平安中期の国使紀躬高の尊信篤く、また上杉家から寺領百石を与えられ、後の元和三年(1617)、時の村上城主村上義明(?〜1604)から寺領百石を寄贈されています。

      今昔、越後の國三島の郡に、乙寺と云ふ寺有り。其の寺に一人の僧住して、昼夜に法華經を読誦するを以て役として、他の亊無し。而る間、二の猿
      出来て、堂の前に有る木に居て、此の僧の法華經を読誦するを聞く。朝には來て、夕には去る。此如く爲る亊、既に三月許に成ぬるに、日毎に闕か
      さずして、同様なる居て聞く。僧、此の亊を怪み思て、猿の許に近く行て、猿に向て云く、「汝ぢ猿は月來此如く來て、此の木に居て經を読誦する
      を聞く。若し、法華經を読誦せむと思ふか」と。猿、僧に向て、頭を振て受けぬ気色也。僧、亦云く、「若し、經を書寫せむと思ふか」と。其の時
      に、猿、喜べる気色にて、僧、此れを見て云く、「汝ぢ、若し經を書寫せむと思はば、我れ、汝等が爲に経を書寫せむ」と。猿、此れを聞て、口
      を動して、尚、かゝめきて喜べる気色にて、木より下て去ぬ。

      其の後、五六日許を經て、数百の猿、皆物を負て持來て、僧の前に置く。見れば、木の皮を多く剥ぎ集めて持來て置く也けり。僧、此れを見るに、
      「『前に云ひし經の料の紙漉け』と思ひたる也けり」と心得て、奇異に思ゆる物、貴き亊限無し。

      其の後、木の皮を以て紙に漉きて、吉き日撰び定めて、法華經を書き始め奉る。始むる日より、此の二の猿、日毎に闕かさず來る。或る時には、署
      預・野老を掘て持來る。或る時には、栗・柿・梨・棗等を拾て持來て、僧に与ふ。僧、此れを見るに、「彌よ奇異也」と思ふ。

      此の經、既に五巻を書き奉る時に成て、此の二の猿、一両日見えず。「何なる亊の有るにか」と怪び思て、寺の近き邊に出でて、山林を廻て見
      るに、此の二の猿、林の中に署預を多く掘り置て、土の穴に頭を指入て、二つ乍ら同じ様に死て臥せり。僧、此れを見て、涙を流して泣き悲むで、
      猿の屍に向て法華經を読誦し、念佛を唱へて、猿の後世を訪けり。

      其の後、僧、彼の猿の誂へし法華經を書畢てずして、仏の御前の柱を刻て籠め置き奉つ。

      其の後、四十余年を經たり。其の時に藤原の子高の朝臣と云ふ人、承平四年と云ふ年、当國の守と成て、既に國に下ぬ。國府に着て後、未だ神事を
      も拝せず、公事をも始めざる前に、先づ夫妻共に三島の郡に入る。共の人も館の人も、「何の故有て、此の郡には怱ぎ入給ふらむ」と怪び思ふに、
      守、國寺に参ぬ。住僧を召出でて問て云く、「若し、此の寺に書畢てざる法華經や御ます」と。僧共、驚て尋ぬるに、御まさず。

      其の時に、彼の經を書きし持經者、年八十余にして、老耄し乍ら、未だ生て有けり。出來て守に申して云く、「昔し、若かりし時、二の猿来て、
      然々して教へて書かしめたりし法華經御ます」と申て、昔の亊を落さず語る時に、守、大に喜て、老僧を礼て云く、「速に其の經を取出し奉るべ
      し。我れは、彼の經を書き畢奉らむが爲に人界に生れて、此の國の守と任ぜり。彼の二の猿と云ふは、今の我等が身、此れ也。前生に猿の身とし
      て、持經者の読誦せりし法華經を聞しに依て、心を發して『法華を書寫せむ』と思ひしに、聖人の力に依て法華を書寫す。然れば、我等聖人の弟子
      也。専に貴び敬ふべし。此の守に任ずる、輙き縁に非ず。極て有難き亊也と云へども、偏へに此の經を書き畢奉らむが故也。願くは、聖人、速かに
      此の經を書き畢奉て、我が願を満よ」と。老僧、此の亊を聞て、涙を流す亊雨の如し。即ち、經を取出し奉て、心を一にして書畢奉つ。
   
      守、亦三千部の法華經を書き奉て、彼の經に副へて、一日法會を儲て、法の如く供養し奉てけり。

      老僧は此の經を書奉れる力に依て、浄土に生れにけり。二の猿、法華經を聞しに依て、願を發して、猿の身を棄てて人界に生れて、國の司と任ず。夫
      妻共に宿願を遂て、法華經を書寫し奉れり。其の後、道心を發して、彌よ善根を修す。実に此れ希有の亊也。

      畜生也と云へども、深き心を發せるに依て、宿願を遂る亊此如し。世の人、此れを知て、深き心を發すべしとなむ、語り伝へたるとや。
          『今昔物語』巻十四第六話 越後國乙寺僧爲猿寫法華語 第六


    芭蕉が乙寶寺を参詣したのは、酒田の伊東不玉の勧めがあったからとされています。不玉はかつてこの寺を訪れて、
      三越路や乙の寺のはなざかり
という句を作り、芭蕉が酒田滞在中に批評を乞うたからと云うことです。

    乙寶寺参詣後、乙(きのと)村の次作は築地村の息子次市郎宛てに紹介状を書いてくれました。

    一行は羽州濱街道を南下し、大出を過ぎて胎内川を渡り、高畑を過ぎるとまもなく築地に到りました。

    芭蕉翁一行は村上の斎藤喜兵衛から築地の大庄屋七郎兵衛の紹介状をもらっていましたが、乙(きのと)村の次作が築地村の息子次市郎に宿泊の依頼状を書いてくれたので、斎藤喜兵衛の紹介状は不要となりました。
 
    一行が次市郎宅に着いたときには、日が暮れていました。
 
      二日 辰ノ刻、立。喜兵方より大庄や七良兵へ方ヘ之状は愚状に入、返ス。昼時分より晴、アイ風出。新潟へ申ノ上刻、着。一宿ト云、追込宿之外
      は不レ借。大工源七母、有レ情、借。甚持賞ス。
          『曾良旅日記』


    旧暦七月二日(陽暦八月十六日)、芭蕉翁一行は辰ノ刻(午前八時頃)、次市郎宅を出立し、新潟湊へ向かいました。曾良は村上の斎藤喜兵衛から築地の大庄屋七郎兵衛の紹介状を貰っていましたが、乙村の次作の息子次市郎宅に宿泊したので、大庄屋七郎兵衛宛ての紹介状が不要になった旨の書簡を添えて、斎藤喜兵衛の許に紹介状を返却しました。

    芭蕉翁一行が陸路濱街道を歩いて新潟湊へ向かったのか、船を利用したかは不明ですが、「昼時分より晴、アイ風出。」と曾良も『随行日記』に記しているように、アイ風(東風)が吹いて順風であったため、船便を利用したのは自然のことだと解されています。

    一行は申ノ上刻(午後四時頃)、新潟湊に到着しました。ところが、新潟湊は湊祭りの時期で大変賑わっていたので、古町の旅籠街ではどこも満室で断られ、「一宿」という一部屋に雑居するような「追込宿」の他は、泊まれるような宿所が見つかりませんでした。

    芭蕉はかなり神経質で、相部屋に雑魚寝して泊まるのを嫌ったので、一行は困惑していました。幸いなことに、困っている二人を大工源七の母が見かねて、一夜の宿を提供しました。大工源七の素性は不明ですが、情け深く親切な職人母子の家で一夜を過ごすことができました。
 
      ○三日 快晴。新潟を立。馬高ク、無用之由、源七指図ニテ歩行ス。申ノ下刻、彌彦ニ着ス。宿取テ、明神へ參詣。
          『曾良旅日記』


    芭蕉翁一行は見ず知らずの新潟で親切な大工源七の母親から持て成しを受けましたが、翌日には彌彦に向けて出立しているため、新潟は築地同様に芭蕉の痕跡はきわめて希薄な土地でありました。
    旧暦七月三日(陽暦八月十七日)、彌彦へ向かって出立した一行は、「馬賃が高いので歩いた方がよい」と源七に忠告されたため、徒歩で出かけました。

    曾良は彌彦への道筋については記していませんが、関屋濱から海岸沿いの旧道を西へ向かい、申ノ下刻(午後六時頃)に彌彦に到着しました。

    彌彦は、越後一の宮の彌彦神社の門前町で、彌彦山(標高634m)の東麓に鎮座する彌彦神社(祭神は天香山命、あめのかごやまのみこと)は、萬葉集の歌にもその名が記された歴史と格式を誇る神社です。「おやひこさま」と呼ばれ、漁業、製塩、農耕、酒造など越の國開拓の祖神として信仰されています。

      伊夜彦於能礼神佐備靑雲乃 田名引日須良霂曽保零 
   
      いやひこおのれ神さび靑雲の たなびく日すら小雨そほ降る
                  萬葉集 巻十六   3883

      伊夜彦神乃布本今日良毛加 鹿乃伏良武皮服著而 角附奈我良
   
      いやひこ神の麓に今日らもか 鹿の伏すらむかはころも着て 角つきながら      
                  萬葉集 巻十六    3884


    この歌は、『萬葉集』巻十六の越中國歌四首の中に収められており、奈良藥師寺の仏足石歌と同じ五・七・五・七・七・七からなる和歌の形式は、仏足石歌体と呼ばれています。
 
    芭蕉翁一行は彌彦神社に参詣しましたが、一言も触れていない上に、どこに泊まったかも不明とされています。しかし、神社の杉並木を過ぎた北側に建つ真言宗の寶光院に宿泊したと伝えられているそうです。

      ○四日 快晴。風、三日同風也。辰ノ上刻、彌彦ヲ立。 弘智法印像爲レ拝。峠ヨリ右ヘ半道計行。谷ノ内、森有、堂有、像有。二、三町行テ、最正
          寺ト云所ヲノヅミト云濱へ出テ、十四、五丁、寺泊ノ方ヘ來リテ左ノ谷間ヲ通リテ、國上へ行道有。荒井ト云、塩濱ヨリ壱リ計有。寺泊ノ
          方ヨリハワタベト云所ヘ出テ行也。寺泊リノ後也。壱リ有。同晩、申ノ上刻、出雲崎ニ着、宿ス。夜中、雨強降。
          『曾良旅日記』


    旧暦七月四日(陽暦八月十八日)、快晴で、前日同様にアイ風(東風)が吹いていました。芭蕉翁一行は辰ノ上刻(午前七時頃)、三嶋郡野積の彌彦山南西中腹にある最正寺(西生寺)の弘智堂に安置されている弘智法印の即身仏像を拝観するため、彌彦を出立しました。

    
 
        天保國繪圖    越後國    新發田村上領 

    彌彦神社の大鳥居前から南下し、観音寺から右折して彌彦山と國上山の鞍部、猿ヶ馬場峠を越えて右の方へ半道(半里)ばかり行くと、真言宗智山派の西生寺があります。この寺院は、天平年間(729〜749)に行基(668〜749)が建立したと伝えられる古刹で、境内の弘智堂には弘智法印(?〜1363)の即身仏像が安置されています。

    下総の人弘智法印は高野山で真言密教を学び、生国下総に帰り大浦の蓮花寺に住んだ後、諸国行脚に出ました。越後に来て三嶋郡野積西生寺の裏の岩坂に草庵を結び、書写、禅定三昧に専念し、貞治二年(1363)、ここで入寂しました。享年八十三歳。
        岩坂の主を誰ぞと人問はば 墨絵に書きし松風の音
の辞世の句を残しています。遺言により、死後も埋葬せず肉身のまま即身仏像として残されています。
    同じ越後の三嶋郡出雲崎の人良寛(1758〜1831)は、名主の生家を出奔、出家し、備前玉島の円通寺で修行した後、故郷に近い蒲原郡国上村国上山の五合庵に居を構え、その一時期、西生寺に仮住まいしたことがあり、その時に弘智法印についての漢詩を残しています。

      題弘智法印像             良寛
      粼皴烏藤朽夜雨          粼皴(りんしゅん)たる烏藤    夜雨に朽ち
      襴衫袈裟化暁烟          襴衫(らんさん)たる袈裟は    暁烟に化す
      誰知此老眞面目          誰ぞ知る此の老の眞面目
      画圖松風千古傳          画圖松風    千古に傳う

      ごつごつした藤の枝は夜雨に打たれて朽ち、立派な袈裟衣は明け方の煙と化したが、誰がこの法印の眞面目を知っているだろうか。それは辞世の
      句「墨絵に書きし松風の音」の中にあり、それがとこしえに伝わるのだ。

     
    西生寺を拝観した一行は、野積という海岸沿いの集落に下りました。ここから寺泊の方へ十四、五町歩いた荒谷(荒井)という塩浜から左の谷間を通って一里ほどいくと、国上山に至ると曾良は記しています。また、寺泊から行く場合は、渡部という所を経て行くとも記しています。

    寺泊は、弘仁年間(810〜824)、國上寺の尼僧が旅人のために無料の宿泊施設を開いて提供したことから「尼寺の泊り」と呼ばれ、のち寺泊といわれる地名になったと伝えられています。寺泊は越後国で最も古い國津(公の湊)で、佐渡島へ一番近い湊でもあり、北國街道の宿場町として栄えてきました。

    芭蕉翁一行が旅した時期は、初秋の残暑厳しき頃で、この地域では製塩業の最盛期でもありました。一行は単調な海岸沿いの北陸道を南下し、寺泊を素通りして寺泊大和田、寺泊郷本、山田、久田を過ぎて北國街道出雲崎宿に入ります。

    出雲崎は海岸沿いの細長い街で、間口が狭く奥行きの長い妻入り家屋が軒を連ね、約一里にも及ぶ妻入りの街並を形成していました。当時はここも寺泊同様に佐渡島の小木との間に航路が設けられており、佐渡島へ海上十八里とは出雲崎を基点としたもので、出雲崎は佐渡金山を控えて大いに栄えた湊町でありました。

    一行は申ノ上刻(午後四時頃)、宿所とした大崎屋に到着しました。

    有名な「あら海や佐渡に横たふあまの川」は、新潟県の出雲崎に泊まった時に読んだものとされていますが、芭蕉は句を残しただけで出雲崎や佐渡については「 おくのほそ道」では何も触れていません。「暑湿の勞に神をなやまし、病おこりて亊をしるさず。」と記したのみです。そのためか、「 銀河の序」 という一文を残しています。

      北陸道に行脚して、越後ノ國出雲崎といふ所に泊る。彼佐渡がしまは、海の面十八里、滄波を隔て、東西三十五里に、よこおりふしたり。みねの嶮
      難の隈隅まで、さすがに手にとるばかり、あざやかに見わたさる。むべ此嶋は、こがねおほく出て、あまねく世の寶となれば、限りなき目出度島に
      て侍るを、大罪朝敵のたぐひ、遠流せらるるによりて、たゞおそろしき名の聞こえあるも、本意なき事におもひて、窓押開きて、暫時の旅愁をいた
      はらんむとするほど、日既に海に沈で、月ほのくらく、銀河半天にかゝりて、星きらきらと冴たるに、沖のかたより、波の音しばしばはこびて、た
      ましいけづるがごとく、腸ちぎれて、そぞろにかなしびきたれば、草の枕も定らず、墨の袂なにゆへとはなくて、しぼるばかりになむ侍る。
          あら海や佐渡に横たふあまの川
          『風俗文選』 宝永三年刊


    つづく

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