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2017年09月26日

奥の細道、いなかの小道(34)− 一振、邦古の浦(2)

  

    葛飾北斎畫 芭蕉之像

    (旧暦8月3日)

    奥の細道、いなかの小道(33)− 一振、邦古の浦(1)のつづき

    ○担籠の藤浪 
    担籠は歌枕で、汐を汲む桶のことを指しますが、地名としては、現在の富山県氷見市に「田子浦藤波神社」があって、その辺りとされています。
    同じく『類字名所和歌集』元和三年(1617)刊には、歌枕『多枯浦』は六首が挙げられています。

    多枯浦   磯   入江   越中   射水郡   駿河同名有

    拾遺夏                    多枯浦の底さへ匂ふ藤波を  かざして行かむ見ぬ人のため            柿本人麿
    新古今雑上             をのが波に同じ末葉ぞしをれぬる  藤咲くたこの恨めしの身や         慈圓
    玉葉雑一                沖つ風吹きこす磯の松が枝に  あまりてかかる多枯の浦藤              前關白左大臣
    新後拾遺雑春          早苗取たこの浦人此ころや  も塩もくまぬ袖ぬらすらむ                   前左兵衛督教定
    新續古今春下          此のころはたこの藤波なみかけて  行てにかさす袖やぬれなむ       土佐門院
        『類字名所和歌集』 巻三

    
  

    『類字名所和歌集』元和三年(1617)刊 巻三 多枯浦

    多胡の浦  景物  藤を専によめり
        『國花萬葉記』 巻十二

    那古、担籠は、皆越中射水郡の名處にて、那古の湖は、放生津と云。濱町の北に有。名處方角抄には、奈古と書り。なごの海の汐のはやひにあさりにし
    出んと鶴は今ぞ鳴なる。〈此の外古歌多し〉

    担籠は、歌書に多古、多胡等の字を用ゆ。〈たこの二字すみてよむべし。駿河の田子の浦に紛るゝ故なり〉海邊氷見の町の北、布施の湖のほとり、〈布
    施のうみも名處なり〉今田となる。拾遺、多胡のうら底さえ匂ふ藤なみをかざして行ん見ぬ人のため、人丸(麻呂)。此藤のかたみとて、今猶しら藤あ
    り。此上の山に、大伴家持の館の跡あり。

    友人靑木子鴻の説に、たこは、担籠と書を正字とすべし。担籠は、潮汲桶の名。此處は、海邊なれば担籠にて潮をくみ、焼て塩となす。故に担籠のう
    らと稱す。塩やく浦といふ心也。多古、多胡、多枯等は、皆仮名書なり。駿河の田子の浦も、是に同じ。故に續日本紀ニ、駿河國従五位下楢原造東等、
    於部内廬原郡多枯浦濱獲黃金献之、と有。然れば、たこの浦は、越中、駿河ともに何れの字を用ても苦しからず、と見えたり、といへり。
        『奥細道菅菰抄』 簑笠庵梨一 撰



    ○初秋(はつあき)の哀とふべきものを
    たとい古歌に詠まれている藤の花咲く春ではなくとも、今の初秋の情趣を尋ねて一見すべき値打ちはあろうものを、との意。

    ○蜑の苫ぶき
    漁師の苫葺きの家。

    ○蘆の一夜
    「蘆の一節(ひとよ)」に「一夜」を言い掛けたもの。

    千載集戀三    難波江の蘆のかり寝のひとよゆゑ  身をつくしてや戀ひわたるべき    皇嘉門院別當

    ○わせの香や分入右は有磯海

    季語は「早稲」で、秋七月。「わせの香」は、熟した早稲の穂から漂ってくるかすかな香りで、米所越中の国土の豊かさを、細やかな感覚で表したも
    の。

    「有磯海」は「荒磯海」の約で、岩が多く波の荒い海岸を控えた海の意味を表す普通名詞だったが、『萬葉集』などの詠により、歌枕としての固有名詞
    とされるに至ったもの。

  

    有磯海

   
    可加良牟等 可祢弖思理世婆 古之能宇美乃 安里蘇乃奈美母 見世麻之物能乎
    かからむとかねて知りせば越の海の  荒磯の波を見せましものを    大伴宿禰家持

    之夫多尓能 佐伎能安里蘇尓 与須流奈美 伊夜思久思久尓 伊尓之敝於母保由
    澁谿の崎の荒磯に寄する波  いやしくしくに古へ思ほゆ            大伴宿禰家持

    伏木の浦は、奈古の入江に續きて、北の方は有磯の濱近し。此處よりすべてありそ海といふなるべし。
        『白扇集』寶永六年刊 浪化上人

 
    ○十四日 快晴。暑甚シ。富山カヽラズシテ(滑川一リ程来、渡テトヤマへ別)、三リ、東石瀬野(渡シ有。大川)。四リ半、ハウ生子(渡有。甚大川
    也。半里計)。 氷見へ欲レ行、不レ往。高岡へ出ル。二リ也。ナゴ・二上山・イハセノ等ヲ見ル。高岡ニ申ノ上刻着テ宿。翁、気色不レ勝。 暑極テ甚。不
    快同然。
        『曾良旅日記』


  旧暦七月十四日(陽暦八月二十八日)、快晴で残暑が厳しい中、芭蕉翁一行は滑川を出立して北國街道を西進し、上市川を徒歩で渡りました。滑川の次の宿場水橋は、北前船や千石船(辨財船)の寄港地水橋湊として重要な海運港でした。

  曾良は「富山カヽラズシテ」と記しているように、水橋から富山城下への道はとらずに、白石川を渡り、水橋辻ヶ堂から海岸に沿って氷見まで通ずる「濱街道」を通り、常願寺川を舟で渡って東岩瀬に向かいました。

  神通川河口の岩瀬は、江戸期には加賀藩の御蔵が置かれ、北前船で米や木材などを大阪や江戸などに運んでいました。

  そしてこの旧上新川郡東岩瀬町より旧上新川郡浜黒崎村横越に及ぶ富山湾沿いの海浜に面する総計約二里の「古志の松原」は、慶長六年(1601)に加賀藩第二代藩主前田利長(1562 〜1614)がその植樹を命じたもので、かつてのこの一帯は「越中舞子」と呼ばれる白砂青松の風光明媚な景勝地でした。

  一行は東岩瀬宿から神通川を舟で渡り、四方、海老江の集落を経て放生津に到り、放生津八幡宮を参詣しました。
  放生津の北の「越の海」一帯が放生津潟(越の潟)で、古くは「奈呉浦」と呼ばれ、伏木の浦から西方氷見に至る一帯が有磯海と考えられています。
  放生津の放生津八幡宮(射水市八幡町二丁目)は社伝によれば、天平十八年(746)、越中國司大伴家持(718頃〜785)が豊前國宇佐八幡宮から勧請した奈呉八幡宮を創始として、嘉暦三年(1328)に放生津の地名が定められ、以降、放生津八幡宮として現在に至っていると伝えられています。
 
  大伴家持は二十九歳の天平十八年(746)七月、國司として越中國に赴任し、その雄大な自然と風土にふれて、天平勝寶三年(751)までの在任五年間で、二百二十余首の歌を詠み、奈呉、奈呉の海、奈呉の江、奈呉の浦を詠んだ秀歌を残しています。

  芭蕉の越中歌枕探訪は、大伴家持の歌を追憶するに留まり、同席して俳諧を楽しむ者に出会うこともなかったので、歌枕の一つ「有磯海」を句に詠むのが精々の慰めであったのであろうかとの解説もあります。

  放生津八幡宮に参詣し、奈呉の浦の風景を楽しんだ芭蕉翁一行は濱街道を西に進み、庄川や小矢部川を舟で渡り、歌枕の二上山(高岡市)や担籠藤波神社(氷見市下田子)に行く予定でありましたが、そこは漁師の粗末な茅葺きの家ばかりで、一夜の宿を貸す者もいないと言い脅されたので、断念して加賀國に入ったと本文に書き記しています。

  芭蕉翁一行が訪れることを断念した担籠藤波神社は、かつては潟湖の岸辺にあったと云い、現在は雨晴海岸(高岡市太田)あたりから3㎞ほど内陸に入った下田子の藤山という丘陵に鎮座しています。
  この古社は、天平十八年(746)、越中國司大伴家持に従ってきた橘正長が、家持から授けられた太刀を天照大神祭の霊代として奉納し、劔社と名付けて創始したのがはじまりと伝えられています。

  このあたりは、『萬葉集』に出てくる「布勢の水海」の入江の一つで、田子浦(多胡の浦)という歌枕にもなっており、古来から藤の名所でもありました。

    十二日遊覧布勢水海船泊於多祜灣望見藤花  各述懐作歌四首
    藤奈美乃  影成海之  底清美  之都久石乎毛  珠等曾吾見流

    藤波の影なす海の底清み  沈(しづ)く石をも  玉とぞ我が見る     守大伴宿祢家持

  田子浦は、かつては田子の白藤の群生地として知られ、藤の精が現れて舞を舞って暁とともに消えて行くという、謡曲『藤』の舞台でもありました。

  田子浦は現在、雨晴海岸と呼ばれていますが、此の由来は、文治三年(1187)、源義経(1159〜1189)が北陸路を経て奥州平泉へ下向する際にこの地を通りかかったときに俄雨に遭い、弁慶が岩を持ち上げて義経を雨宿りさせたという伝説から来た名称だと云われています。

  海岸には女岩、男岩などが点在し、越の海越しに雄大な立山の山並みを背景にして、絶景を作り出しています。越中國司として伏木に在住した大伴家持が、此の絶景を詠んだ多くの和歌が『萬葉集』に収められています。

    馬並氐  伊射宇知由可奈  思夫多尓能  欲吉伊蘇未尓  与須流奈弥見尓
    馬並めていざ打ち行かな澁谿の  清き磯廻に寄する波見に     守大伴宿祢家持

  芭蕉翁一行は萬葉の故地として、かねてより心を寄せていた田子浦を訪ねようとしましたが果たせず、諦めて庄川を舟で渡って六度寺に入り、道を南西に向かい、右手に歌枕の二上山を遠望しながら、吉久、能町を経て、申ノ上刻(午後四時頃)に高岡に着き、旅篭町に宿をとりました。

  曾良は、「翁、気色不レ勝。 暑極テ甚。小□同然。」と記しています。□は原文難読で、残暑の酷しい中を十里弱歩き続けたため、体調を崩してしまったのかもしれません。

 
      一  十五日 快晴。高岡ヲ立 。埴生八幡ヲ拝ス。源氏山、卯ノ花山也。クリカラヲ見テ、未ノ中刻、金沢ニ着。
          京や吉兵衛ニ宿かり、竹雀・一笑へ通ズ、艮(即)刻、竹雀・牧童同道ニテ来テ談。一笑、去十二月六日死去ノ由。
          『曾良旅日記』


  旧暦七月十五日(陽暦八月二十九日)、この日も快晴で残暑が酷しい日でしたので、曾良は高岡に滞在して養生することを芭蕉に奨めましたが、芭蕉は金澤に会いたい者がいるから養生はそこに着いてからすると云うので、一行は高岡を出立して金澤に向かいました。

  高岡の旅籠町から南西に進み、立野、寶來町、福岡町、石王丸を経て小矢部川を舟で渡り、石動宿に着きます。石動宿から南に下り埴生に至ると、埴生八幡宮があります。

  埴生八幡宮は社伝によれば、養老二年(718)、豊前の宇佐八幡宮の分霊を勧請したのがはじまりといわれ、天平十八年(746)に越中の國司として赴任した大伴家持が国家安寧、五穀豊穣を祈願したと伝えられています。

  平安末期の壽永二年(1183)五月、木曾次郎義仲(1154〜1184)は、倶利伽羅峠で平家方の総大将平維盛(1158〜1184)率いる十万とも云われる大軍と決戦する折、埴生に本陣を置き、埴生八幡宮に戦勝を祈願しました。

  以後、蓮沼城主遊佐氏、武田信玄(1521〜1573)、佐々成政(1536〜1588)ら戦国武将の信仰が篤く、本殿は慶長五年(1600)八月、金澤城主前田利長(1562 〜1614)が大聖寺出陣に際し、戦勝祈願をして寄進しています。その後、加賀藩前田家の祈願社となり、社名の「護國」は、江戸初期に凶作がつづいたために、加賀藩第二代藩主前田利長(1562 〜1614)が当社に祈願して、この尊号を奉ったことによると云います。

  芭蕉翁一行は、この護國八幡宮に参詣して、倶利伽羅峠へ向かいました。護國八幡宮の南に建つ醫王院の前を通り、石坂という集落を過ぎて山中に入り、矢立山から砂坂を越えて倶利伽羅峠に至りました。

  歴史に名高い倶利伽羅峠の合戦は、壽永二年(1183)五月十一日の夜のことでありました。

  治承四年(1180)、第七十七代後白河天皇(在位:1155〜1158)の第三皇子以仁王(1151〜1180)の平家追討の令旨に応じて信濃国で挙兵した木曾次郎義仲(1154〜1184)は、翌治承五年(1181)に平家方の城助職(1152〜1201)の一万の大軍を信州横田河原の戦いで破り、その勢力を北陸道方面に大きく広げていました。

  壽永二年(1183)四月、平家方は権亮三位中将平維盛(1160〜1184)を総大将とする十万騎の大軍を北陸道へ差し向け、越前、加賀の在地反乱勢力がこもる今庄の燧ヶ城の戦いで勝利し、義仲軍は越中国へ後退を余儀なくされました。
  しかし、五月九日の明け方、加賀国より軍を進め越中般若野の地で兵を休めていた平家方先遣隊越中前司平盛俊(不詳〜1184)の軍勢五千が、木曾義仲の先遣隊である義仲四天王の一人今井兼平(1152 〜1184)の軍勢六千に奇襲されて戦況不利に陥り、平家方は退却してしまいました。

  一旦後退した平家方は、能登国志雄山に越前三位平通盛(1153〜1184)、従五位上三河守平知度(不詳〜1183)の三万余騎、加賀国と越中国の国境の礪波山に小松三位中将平維盛(1158〜1184)、正五位下左馬頭平行盛(未詳〜1185)、正四位下薩摩守平忠度(1144〜1184)らの七万余騎の二手に分かれて陣を敷きました。

  平家方七万余騎は再度越中の攻略を計るため倶利伽羅峠の倶利伽羅不動明王を祀った長樂寺に本陣を布き、迎え撃つ義仲の軍勢は麓の埴生八幡宮に本陣を置きました。

  義仲は、埴生八幡宮に次のような願文を奉納しています。

    帰命頂礼、八幡大菩薩、日域朝廷之本主、累世明君之嚢祚、爲守宝祚爲利蒼生、改三身之金容、開三所之權扉、爰項年之間、有平相國、恣管領四海、悩
    乱万民、猥蔑萬乗、焚焼諸寺、已是佛法之讎、王法之敵也、義仲苟生弓馬之家、僅継箕裘之塵、見聞彼暴悪、不能顧思慮、任運於天道、投身於国家、試
    起義兵、欲退凶器、闘戦雖合両家之陣、士卒未得一塵之勇之処、今於一陣上旌之戦場、忽拝三所和光之社壇、機感之純熟已明、兇徒之誅戮無疑矣、降歓
    喜之涙、銘渇仰於肝、就中曽祖父前陸奥守義家朝臣、寄附身宗廟氏族、自号名於八幡太郎以降、爲其門葉者無不帰敬矣、義仲為其後胤、傾頭年久、今起
    此大功、喩如嬰兒以貝量巨海、蟷螂取斧向奔車、然間爲君爲國起之、爲身爲私不起志之至、神鑒在暗、憑哉、悦哉、伏願冥慮加威霊神合力、勝決一時、
    怨退四方、然則丹祈相叶冥慮、幽賢可成加護者、先令見一之瑞相給、仍祈誓如件。
        壽永二年五月十一日                    源義仲敬白

        『源平盛衰記』 屋巻  第二十九  新八幡願書事

     帰命頂礼、八幡大菩薩は日域朝廷の本主、累世明君の嚢祚たり。寶祚を守らんが爲、蒼生を利せむが爲に、三身の金容を改め、三所の權扉を開く。爰に
    項年の間、平相國有り、恣に四海を管領して、萬民を悩亂せしめ、萬乗を猥蔑し、諸寺を焚焼す。已に是れ佛法の讎、王法の敵也。義仲苟くも弓馬の家
    に生まれ、僅かに箕裘の塵を継ぐ。彼の暴悪を見聞し、思慮を顧みるに能はず。運を天道に任せ、身を國家に投ぐ。試みに義兵を起し、凶器を退けんと
    欲す。闘戦兩家の陣を合はすと雖も、士卒未だ一塵の勇の處を得ず、今一陣旌を上ぐる戦場に於いて、忽ち三所和光の社壇を拝す。機感の純熟已に明ら 
    かなり。兇徒の誅戮疑ひ無し。歓喜の涙降り、渇仰肝に銘す。就中、曽祖父前陸奥守義家朝臣、身を宗廟の氏族に寄附して、自ら名を八幡太郎と號せし
    以降、其の門葉たる者の帰敬せずといふこと無し。義仲其の後胤となり、頭を傾けて年久し。今此の大功を起こすこと、喩へば嬰兒を以て巨海の貝を量
    り、蟷螂の斧を取りて奔車に向ふが如し。然る間、君の爲、國の爲に之を起こす。身の爲、私の爲に起こさず。志の至り、神鑒暗に在り。憑しき哉、悦
    ばしき哉。伏して願くは冥慮威を加へ、霊神力を合はせて、勝つことを一時に決し、怨を四方へ退けよ。然らば則ち丹祈冥慮に相叶ひ、幽賢加護を成す
    べきは、先ず一つの瑞相を令見せしめ給へ、仍、祈誓如件。
        壽永二年五月十一日                    源義仲敬白

   


  五月十一日朝、平家方は倶利伽羅峠から猿ヶ馬場一帯に本陣を移動しました。
 
  義仲軍は五月十一日の昼間はさしたる合戦も行わずに平家方の油断を誘い、義仲四天王の一人樋口兼光(不詳〜1184)の一隊三千余の兵を密かに平家方の搦手に迂回させました。

  平家方が寝静まった夜中、南北より回り込んだ搦手軍三千余騎が、倶利伽羅の御堂のあたりに展開し、箙の方立をたたき、閧の声を上げました。

  やがて大手より義仲率いる一万余騎が閧の声を上げ、礪波山の裾や、松長の柳原、ぐみの木の林に潜ませていた一万余騎、また日宮林に控えていた今井四郎率いる六千余騎も、同じく閧の声を上げました。

  大混乱に陥った平家方七万余騎は、唯一敵が攻め寄せてこない方向へと我先に逃れようとしましたが、そこは倶利伽羅峠の地獄谷の断崖でした。平家方は、将兵が次々と谷底に転落して一万八千にもおよぶ戦死者を出して壊滅的な打撃を受け、以後、京都まで潰走を続けました。

  

    倶利伽羅合戦要図

  『源平盛衰記』には、屋巻第二十九「礪並山合戦事」として、

    四五百頭の牛の角に松明を燃して平家の陣に追入つゝ

という、源平合戦の中でも有名な一場面がありますが、この戦術が実際に使われたのかどうかについては古来史家からは疑問視する意見が多く見られているようです。
  眼前に松明の炎をつきつけられた牛が、敵中に向かってまっすぐ突進していくとは考えにくいからで、このくだりは、中国戦国時代の齋の武将田単が用いた「火牛の計」の故事を下敷きに後代潤色されたものであると考えられているようです。

  田単の「火牛の計」は、角に剣を、尾に松明をくくりつけた牛を放ち、突進する牛の角の剣が敵兵を次々に刺し殺すなか、尾の炎が敵陣に燃え移って大火災を起こすというものでした。 

  江戸後期の戯作者十返舎一九(1765〜1831)は、『金草鞋』文政十一年(1828)刊のなかで、石動宿から倶利伽羅古戦場、倶利伽羅不動明王に参詣した際、往事の不動の茶屋の繁盛ぶりを記しています。

      商ひに利生ぞあらん 倶利伽羅の不動の前の茶屋の賑はひ

  倶利伽羅不動明王を祀った長樂寺は、その縁起によると、養老二年(718)、中国から渡来した摩伽陀国(中部インド)の高僧善無畏三蔵法師(637〜735)が、第四十四代元正天皇(在位:715〜724)の勅願により倶利迦羅不動明王の姿を彫刻した像を奉安した事が始まりと伝えられています。

  剣に巻きついた黒龍の姿が倶利伽羅不動明王で、地名の「倶利伽羅」はこれに因んだものであるとのこと。その後、弘仁三年(812)、弘法大師(774〜835)が諸国巡錫の折にこの地を訪れ、以後山上には七堂伽藍が建ち並び、塔頭二十一ヶ寺を数えたと云います。

  倶利伽羅峠を下り、竹橋宿、津幡宿を経て、一行は金澤へ急ぎました。



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