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2017年09月14日

奥の細道、いなかの小道(33)− 一振、邦古の浦(1)

    

      正岡子規(1867〜1902)


    (旧暦7月29日)

  子規忌、糸瓜忌、獺祭忌
  俳人、歌人の正岡子規(1867〜1902)明治三十五年(1902)九月十九日の忌日。辞世の句に糸瓜を詠んだことから糸瓜忌、獺祭書屋主人という別号を使っていたことから獺祭忌とも呼ばれる。

  芭蕉翁一行は糸魚川を昼過ぎに出立し、難所の子不知、親不知を通って申ノ中尅(午後4時頃)には市振の旅籠桔梗屋(脇本陣)に到着しているので、糸魚川〜市振間の約五里ほどを4時間弱で踏破したことになるのでしょうか、相当の健脚と云わねばなりますまい。

      〈一 振〉
      今日は親しらず・子しらず・犬もどり・駒返しなど云北國一の難處を越て、つかれ侍れば、枕引よせて寐たるに、一間隔て面の方に、若き女の声 
      二人計ときこゆ。年老たるおのこの声も交て物語するをきけば、越後の國新潟と云所の遊女成し。伊勢参宮するとて、此關までおのこの送りて、あ
      すは古郷にかへす文したゝめて、はかなき言伝などしやる也。白浪のよする汀に身をはふらかし、あまのこの世をあさましう下りて、定めなき契、
      日々の業因、いかにつたなしと、物云をきくきく寐入て、あした旅立に、我々にむかひて、「行衛しらぬ旅路のうさ、あまり覚束なう悲しく侍れ
      ば、見えがくれにも御跡をしたひ侍ん。衣の上の御情に大慈のめぐみをたれて結縁せさせ給へ」と、泪を落す。不便の事には侍れども、「我々は
      所々にてとヾまる方おほし。只人の行にまかせて行べし。神明の加護、かならず恙なかるべし」と、云捨て出つゝ、哀さしばらくやまざりけらし 。
            一家に遊女もねたり萩と月
      曾良にかたれば、書とゞめ侍る。

   
    

       市  振

  『おくのほそ道』のこの文章は、芭蕉の創作ではないかと推定されています。曾良の旅日記にも市振宿で遊女と出会った記録はなく、『俳諧書留』にもこの句は収載されていません。

  この遊女との出会いの物語は、謡曲「山姥」(世阿彌作)を下敷きに創作したのではないかと考えられています。

      都に山姥の山廻りの曲舞(くせまい)で有名な百萬(ひゃくま)山姥と呼ばれる白拍子がいた。
      ある時、百萬山姥が信濃國善光寺に参詣を思い立ち、従者を連れて旅に出た。途中、越後の上路(あげろ)という山路にさしかかったところで急に
      日が暮れてしまい、途方に暮れていると一人の女が現れ、一夜の宿を提供するからと山中の我が家へ一行を案内する。家に着くとその女は、実は 
      自分が山姥の霊であることを明かし、百萬山姥が曲舞で名を馳せながら、その本人を心に掛けないことが恨めしい、と言う。


      道を極め名を立てて、世上萬徳の妙花を開く事、この一曲の故ならずや、しからばわらはが身をも弔ひ、舞歌音楽の妙音の、声佛事をもなし給は 
      ば、などかわらはも輪廻を免れ、歸性の善處に至らざらん


      ここで百万山姥の曲舞を聞いてこの妄執を晴らしたい、と歌の一節を所望してその姿を消す。

      我國々の山廻り。今日しもここに來るは。我が名の徳を來かん爲なり。謡い給いてさりとては。我が妄執を晴らし給え。

      百萬山姥が約束通り、山姥の曲舞を始めると真の山姥が姿を現する。そして本当の山姥の生き様を物語り、山廻りの様を見せるが、いつしか峰を翔
      リ、谷を渡って行く方知れず消え失せる。 
          宝生流謡曲 「山 姥」


    

    山姥  『畫圖百鬼夜行』  安永五年(1776)刊  鳥山石燕

  この舞台となっている「上路越え」は、親不知の海道が通れない非常時に使われた険しい峠道となっています。芭蕉はこの謡曲を知っていたので、後年、『おくのほそ道』の起稿に際して、加筆した虚構の一つと考えられています。

  さて、市振宿での遊女との出会いが創作ではないかと考えられていることについては、以下のような理由によることだそうです。

    face01①  当時の時代背景を考慮すると、遊女二人だけで伊勢参宮のために長旅をすると云うことはありえない。

    face02②  遊女にそのような旅をする資金や暇があったとは思えず、仮にあったとしても、女性だけの旅には特に厳しかった時代である。

    face03③  市振は越後・越中の国境の宿場であり、芭蕉應一行が泊まった宿は脇本陣の旅籠桔梗屋で、身分制度の厳しい時代に遊女が脇本陣に泊まるとは考えられない。

    face05④  元禄二年(1689)は伊勢神宮の式年遷宮があった年で、『おくのほそ道』の終章「長月六日になれば、伊勢の遷宮おがまんと」に関わりを持たせるために、「越後の國新潟と云處の遊女成し。伊勢参宮するとて」を創作挿入したのであろうか。

      ○白浪のよする汀に
      湊町新潟を叙情的に表したもので、『和漢朗詠集』遊女の下記の歌を踏まえたものとされています。
 
      しらなみのよするなぎさに世をすぐす あまのこなればやどもさだめず
                      読人不知
            下巻 雜 遊女

 
      ○定めなき契り
      夜ごとに変わる相手に身を任せることで、『撰集抄』巻九第八話「江口遊女事」を下敷きにしているとのこと。

      心は旅人の行き來の船を思ふ遊女のありさま、「いとあはれに、はかなきものかな」と見立てりし
            撰集抄 巻九第八話 江口遊女事



      ○日々の業因
      罪な日々を送るべく定められた前世の因縁のことで、謡曲『江口』の内容を踏まえているか。
   
      シテ     然るに我等たまたま受け難き人身を受けたりといへども
      地        罪業深き身と生まれ、殊にためし少き川竹の流れの女となる。さきの世乃報いまで、思ひやるこそ悲しけれ
            謡曲  江口

      ○行衛しらぬ旅路
      前途の道筋もよくわからぬ道中のことで、謡曲『江口』の次の一節をかすかにひびかせているとのこと。

      地    來世なほ來世。更に世々(せぜ)の終りを辨(わきも)ふる事なし
            謡曲  江口


      ○見えがくれにも
      「そばに遊女がついて行くのもご迷惑でしょうから、せめては見えたり隠れたりの、つかず離れずの形ででも」との意で、これも謡曲『江口』の次の一説によるものか。

      シテ    黄昏に、たゝずむ影はほのぼのと、見え隠れなる川隈に、江口の流れの君とや見えん恥かしや
            謡曲  江口


      ○神明の加護
      伊勢参宮に関係付けて、特に皇大神宮(内宮)の助けを云い、謡曲『斑女』の一節が投影されているものか。

      地    置處いづくならまし身のゆくへ
      地    心だに誠の道にかないなば。誠の道にかないなば。祈らずとても。神や守らん我等まで真如の月は雲らじを。
            謡曲  斑女



      ○結縁せさせ給へ
      仏法と縁を結ぶことで、謡曲『田村』の次の一節に基づくか。

      後シテ    あら有難の御經やな。清水寺の瀧つ波。一河の流を汲んで。他生の縁ある旅人に。言葉を交す夜声の読誦。是ぞ則ち大慈大悲の、
                   観音擁護の結縁たり。
            謡曲  田村


      ○十三日 市振立。虹立。玉木村、市振ヨリ十四五丁有。中・後ノ 堺、川有。渡テ越中ノ方、堺村ト云。加賀ノ番所有。出手形入ノ由。泊ニ到
      テ越中ノ名處少々覚者有。入善ニ至テ馬ナシ。人雇テ荷ヲ持せ、黒阝川ヲ越。雨ツヾク時ハ山ノ方へ廻ベシ。橋有。壱リ半ノ廻リ坂有。昼過、雨為
      降晴。申ノ下尅、滑河ニ着。暑気甚シ。
          『曾良旅日記』


  旧暦七月十三日(陽暦八月二十七日)、芭蕉翁一行が市振を出立すると虹がかかりました。市振宿の西端には高田藩が警備する市振関所が設けられており、領外に出るには手形が必要でしたが、一行は事前に高田で手形を取得していたので、通過には問題はありませんでした。

  関所を通過して北國街道を西進すると、玉の木集落の先に境川が流れており、この川が越後国と越中国との国境になっていました。境川を渡ると加賀藩領境村で、ここには加賀藩の境関所があり、北國街道随一の厳重な警備を行っていました。

  この関所は、当初は口留番所として設置していたものを、慶長十九年(1614)に正式に関所として整備し、海辺や海上渡航改めをする濱番所、街道通行改めの岡番所、海上や山中を不法越境するものを見張る御亭(おちん、中国唐代の読み方だとか)、藩主が宿泊した「御旅屋(おたや)」、鐵炮場、牢屋、門番長屋、などがありました。

  徳川幕府は各藩が私関を置くことを禁じ、藩の関所は「口留番所」と称しましたが、加賀藩では境については幕府と同様に「関所」と呼び、領内に六ケ所ある中、区別をしていたといいます。

  関所奉行は千五百石から五千石までの家臣がこの任に当たり、二〜三年で交代していました。
  この関所から入国する際には名前と生国を告げるだけでしたが、出国の際は加賀藩および富山藩で発行した出判がないと通過できませんでした。曾良は「出手形入ノ由」と記しています。

  越中国に入国して最初の宿場は泊(富山県朝日町)で、曾良はここで越中の名所について土地の人に聞いています。
  泊から街道は二手に分かれ、一つは海辺を行く下街道(北國街道)、もう一つは「雨ツヾク時ハ山ノ方へ廻ベシ。橋有。」と曾良が記した、黒部川上流に架かる愛本(黒部市宇奈月町)の刎橋(日本三奇橋の一つ。他に山口県岩国川の錦帯橋、山梨県桂川の猿橋)を経由して三日市(黒部市)に至る上街道でした。
  この一帯は黒部川の本支流が網の目のように枝分かれして、「黒部四十八ヶ瀬」と呼ばれる交通の難所でした。上流の愛本の刎橋を経由すれば確実に川越ができましたが、一里半程の遠回りをしなければならないので、黒部川の減水期や道を急ぐ旅人は下街道を通行したとのことです。

    

        愛本の刎橋

  芭蕉翁一行は下街道を進んだものと思われ、次の宿の入善宿では宿馬が出払っていたので利用できませんでした。入善宿の先に黒部川が待ち受けていますが、当時の川幅は約五十間、水深約三尺三寸ほどであったと云い、人も荷物も川越人足に頼らなければ渡れない状況で有ったと云います。

  黒部川を渡って三日市を過ぎ、片貝川を徒歩で渡って魚津の宿を通過すると角川を徒歩で渡り、さらに早月川も浅瀬のため徒歩で渡り、北国街道は三ヶ、吉浦、笠木、濱四ツ屋、荒俣、高塚などの田んぼの中の集落を経て、申ノ下尅(午後四時半頃)に滑川に着き、新町の旅籠川瀨屋に宿泊しました。この日は暑気甚だしく、市振から十里ほどの道程を歩いた一行は、疲労困憊の状態だったようです。

      〈那古の浦〉
      くろべ四十八が瀬とかや、数しらぬ川をわたりて、那古と云浦に出。担籠の藤浪は、春ならずとも、初秋の哀とふべきものをと、人に尋れば、「是
      より五里、いそ傳ひして、むかふの山陰にいり、蜑の苫ぶきかすかなれば、蘆の一夜の宿かすものあるまじ」といひをどされて、かゞの国に入 。
          わせの香や分入右は有磯海


      ○くろべ四十八が瀬とかや
      黒部川の河口近く川筋の無数に分岐した所を古来四十八が瀬といい、難所として知られていました。物語や歌舞音曲の様々なところで語られていま
      す。

      明くれば黒部の宿に少し休ませ給ひ、黒部四十八箇瀬の渡を越え、市振、淨土、歌の脇、寒原、なかはしと言ふ所を通りて、岩戸の崎と言ふ所に著
      きて、海人の苫屋に宿を借りて、夜と共に御物語有りけるに、浦の者共、搗布(かちめ)と言ふものを潛(かづ)きけるを見給ひて、北の方かくぞ
      續け給ひける。
          『義経記』 巻七 如意の渡にて義経を弁慶打ち奉る事

      是より奧へあまたの道が候が、いづれも是は難處なり。まづ下道の難處を語らば聞こしめさるべし。くろべは四十八ヶ瀬、親知らず子知らず、市
      振・淨土・歌の脇云々。
          『とがし』 幸若

      あまたの難所の候。惣じてくろべは四十八ヶ瀬、時しも春の末なれば、こぞの雪のむら消えに、今年の雪の降りつもり、谷の下水落ち合ひて、みか
      さまさりて、鳥ならで通ふべきやうさらになし
          『笈さがし』 幸若

      くろべ、黒部と書。川の名にて、越中婦負郡、三日市と(鉢の木の諷物に云櫻井の宿なり)、魚津との間を流る。河上に相本の橋といふ名高きはね
      橋あり。是を本往來とす。四十八ヶ瀬は、下海際の往還にて、岩瀬通りと云近道、或は越中の海辺、能登の國などへ行道筋也。河原の幅一里半ばか
      り、其中を幾瀬も流れて、難河なり。
          『奥細道菅菰抄』 簑笠庵梨一 撰


      ○那古と云浦 
      富山湾(越の海)に面した現在の射水市の海岸線で、歌枕になっています。
      連歌師里村昌琢(1574〜1636)が二十一代集の勅撰和歌集から名所に関わる和歌を抄出し、いろは順に歌枕を並べて収録した『類字名所和歌集』
      元和三年(1617)刊には、歌枕『那古』は十二首が挙げられています。
   
      奈呉    江    湊    海    門    浦    沖    越中    射水郡

      金葉戀下         逢事もなこ江にあさる蘆鴨の  うきねを鳴くと人は知らずや             摂政左大臣
      續後撰冬         湊風寒く吹くらし鶴の鳴  那古の入江につららゐにけり                   権中納言長方
      續古今雜下      月出でて今こそかへれ那古の江に  夕べわするるあまの釣舟        藤原光俊
      同雜下             湊風寒く吹くらし奈呉の江に  妻よびかはしたずさはに鳴く            家持
      續後撰戀一      なこの海やと渡る舟の行きずりに  ほの見し人の忘られぬかな      權中納言俊忠
      新後撰秋下       雲はらふ那古の入江の塩風に  湊をかけてすめる月かげ             前大納言具房
      續千載旅          那古の浦にとまりをすれば  敷妙の枕にたかき沖津白波              後二条院
      玉葉雜二          那古の海に妻よびかはし鳴田鶴の  聲うら悲し小夜や更ぬる        宗尊親王
      續後拾遺冬      なこの江に芦のはそよく湊風  こよひも波にさむく吹くらし            前大納言基良
      新千載秋下       吹きはらふあなしの風に雲晴て  なこのと渡る有明の月              俊成
      新千載戀二       磯な摘むなこの蜑人事とはむ  干すにかわかぬ袖はありやと        法橋顯昭
      新續古今冬      波さわぐなこの湊の浦かぜに  入江の千鳥むれてたつ也             伏見院御製
          『類字名所和歌集』 巻三


    

        『類字名所和歌集』  巻三  奈呉
  
  石川清民が『萬葉集』の名所和歌を分類して収録した『楢山拾葉』寛文十一年(1671)刊には、下記のような歌などを挙げています。

      東風  伊多久布久良之  奈呉乃安麻能  都利須流乎夫祢  許藝可久流見由
      東風いたく吹くらし奈呉の海士の  釣する小舟こぎ隠る見ゆ        家持
   
      美奈刀可是  佐牟久布久良之  奈呉乃江尓  都麻欲妣可波之  多豆左波尓奈久
      湊風寒く吹くらし奈呉の江に  妻よびかはし鶴さはに鳴く        家持
 
      天平廿年春三月廾三日左大臣橘家之使者造酒司令史田邊福麻呂饗于守大伴宿彌家持舘爰作新歌并便誦古詠各述心緒
      奈呉能宇美尓 之保能波夜非波 安佐里之尓 伊泥牟等多豆波 伊麻曽奈久奈流

      奈呉の海に潮の早干ばあさりしに  出でむと鶴は今ぞ鳴くなる    福麻呂
          『楢山拾葉』


      放生子(放生津)ノ町ニ名アリ。後ニ湖アリ。コレナラン。大半、田ニナル。
          『名勝備忘録』 曾良


    那古の浦は、『富山県誌要』によれば、現在の富山県射水市堀岡の海岸一帯がそこにあたると云うことです。

      つづく

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