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2005年10月08日

秋津嶋の旅(7)−南海道(1)−讃岐

 秋津嶋の旅(7)−南海道(1)−讃岐

 玉藻公園(旧高松城)
 
 (旧暦  9月 6日)

 讃州高松に行ってきました。2泊3日の日程で、昨日やっと帝都に帰ってきました。
 ここは、律令制に基づいて設置された日本の地方行政区分である令制国の五幾七道の内の南海道に属し、中央から派遣された国司が治める国の一つでした。
 令制国の確実な成立は、大宝元年(701)に制定された大宝律令からとされていますが、その成立は大化元年 (645) の大化の改新から大宝元年(701)の間の段階的な制度変化の結果であった可能性も高いとされています。

 そもそも、古代の日本は、土着の豪族である国造(くにのみやつこ)が治める国と、大和政権の代理人としてその地方を祭司していた県主(あがたぬし)が治める県(あがた)が並立した段階があったようですが、律令制施行以後は、国司が治める令制国に移行していきました。

 さて讃岐の国ですが、国府は現在の坂出市に有ったそうですが、まだその遺跡は見つかっていないとのことです。
 讃岐高松藩は、豊臣氏の家臣生駒親正(1526〜1603)が、秀吉の四国平定後の天正15年(1587)に、讃岐一国17万3千石を与えられたことに始まりますが、4代高俊の寛永17年(1640)にお家騒動(生駒騒動)により改易、出羽国矢島藩に転封となってしまいました。

 その後、寛永18年(1641)西讃地域に山崎氏が入って丸亀藩5万石が興り、翌寛永19年(1642)に東讃地域に、常陸国下館藩より御三家の水戸徳川家初代・徳川頼房の長男・松平頼重が12万石で入封し、明治維新までつづく高松藩松平家が成立しました。
 高松城は、別名玉藻城(たまもじょう)とも呼ばれ、天正18年(1590)に生駒親正によって築城されましたが、瀬戸内海に面し、外堀と内堀には海水が引き込まれており、総面積は約20万坪、いわゆる水城として伊予今治城(愛媛県)、豊前中津城(大分県)とともに日本三大水城のひとつに数えられています。

 明治時代の初め頃までには3層5階の天守閣がありましたが、明治17年(1884)に老朽化のために解体されています。その天守は、初層が13間×12間、高さ13間半にもおよび、四国最大を誇っていたそうです。

 明治4年(1871)の廃藩置県により、兵部省の所管として大阪鎮台分営が置かれましたが、明治23年(1891)旧藩主松平家に払い下げられ、戦後の昭和29年に高松市が譲り受けました。

 現在、高松城全域は玉藻公園として入場料大人200円で開放されていますが、月見櫓、艮(うしとら)櫓、水手御門、渡櫓が現存しており国の重要文化財に指定されています。
 
 城内には、披雲閣と呼ばれる広大な藩庁時代の建物が有ったそうですが、これも明治5年(1872)に老朽化により取り壊され、大正6年(1917)に3年の月日と当時のお金で15万円余の巨費を投じて、現在の披雲閣(当時の約半分)が完成しています。
 披雲閣の建物のなかには142畳敷の大書院、槙の間、松の間、そてつの間などの部屋があり、波の間には昭和天皇ご夫妻が宿泊されたそうです。

 ちなみに玉藻とは藻の美称で、「玉藻よし」という言葉は、讃岐にかかる枕詞です。
 万葉集巻2−220で柿本人麻呂が讃岐の国の枕詞に「玉藻よし」と詠んだことにちなんで、このあたりの海が玉藻の浦と呼ばれていたことによるといわれています。

 讃岐国狭岑島(さみねのしま)にて石の中に死(みまか)れる人を視て、柿本朝臣人麿の作る歌一首、また短歌

 玉藻よし 讃岐の國は 國柄(くにから)か 見れども飽かぬ ?柄(かむから)か ここだ貴き 天地 日月とともに 満(た)りゆかむ ?の御面(みおも)と 継ぎて来る 中の水門(まなと)ゆ 船浮けて わが漕ぎ来れば 時つ風 雲居に吹くに 沖見れば とゐ波立ち 邊(へ)見れば 白波さわく 鯨魚(いさな)取り 海を恐(かしこ)み 行く船の 梶引き折りて をちこちの 島は多けど 名くはし 狭岑の島の 荒磯面(ありそも)に いほりて見れば 波の音(と)の 繁き濱べを 敷布(しきたへ)の 枕になして 荒床に 自(ころ)伏す君が 家知らば 行きても告げむ 妻知らば 来も問はましを 玉桙(ほこ)の 道だに知らず 欝悒(おぼほ)しく 待ちか戀ふらむ愛(は)しき妻らは


 反し歌二首
 妻もあらば 摘みてたげまし佐美の山 野の上(へ)のうはぎ過ぎにけらずや
 沖つ波 来寄る荒礒を敷布(しきたへ)の 枕とまきて寝(な)せる君かも


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Posted by 嘉穂のフーケモン at 22:44│Comments(0)秋津嶋の旅
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