2005年10月09日
物語(4)−平家物語(1)−那須與一の事
『平家物語絵巻』巻十一、屋島の戦い「扇の的」
(旧暦 9月 7日)
九郎判官義経(1159〜1189)の伝説は全国各地に残されており、最近では大手出版社から義経の波乱万丈の生涯とゆかりの地を30冊にわたって紹介する分冊百科も出ているようですから、その根強い人気には感心させられます。
壽永2年(1183)7月25日、安徳天皇、建礼門院を奉じて都落ちした平家一門は、一旦は九州まで落ち延びましたが、再び東上して壽永3年(1184)1月にはかって遷都した摂津福原に戻り、播磨との国境の一ノ谷に城郭を構えて源氏に備えていました。
壽永3年(1184)2月7日早朝、義経率いる三千餘騎は背後の鵯越えから奇襲して平家の陣を混乱させ、兄範頼の軍と共に激戦の末平家の軍勢を駆逐しました。
海上に逃れた平家の軍勢は、さらに四国讃岐の屋島に逃れて陣を築き再興を図っていましたが、翌年の元暦2年(1185)2月16日、義経は摂津国渡邊、福島から暴風の中五艘、僅か五十騎を率いて海を渡って阿波の国勝浦に上陸、18日には背後から屋島の平家本営を攻撃し大激戦となりました。
「今日は日暮れぬ、勝負を決すべからず」とて、源平互に引退く処に、沖の方より尋常にかざりたる小舟一艘、汀(みぎは)へ向ひて漕ぎ寄せ、渚より七八段(70〜80m)ばかりにもなりしかば、舟をよこさまになす。「あれはいかに」と見る程に、船のうちより、年の齢十八九ばかりなる女房の、柳の五衣(いつつぎぬ)に、紅の袴着たるが、皆紅(くれない)の扇の、日出したるを、舟のせがいに鋏み立て、陸(くが)へ向つてぞ招きける。 『平家物語 流布本 巻11』 続きを読む