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2005年04月12日

となり村名所あんない(15)−千代田村(3)−桜田門外

 となり村名所あんない(15)−千代田村(3)−桜田門外

 桜田門外の変

 (旧暦  3月 4日)

 安政7年(3月18日に万延と改元)3月3日は上巳の節句(陰暦3月の最初の巳の日)で、江戸在府の大名は総登城する決まりでした。

 この日は桃の節句だというのにめずらしく大雪で、登城の時刻の五つ半(朝9時頃)には降雪が激しく、登城する各大名の供廻りの者は一人残らず刀の柄に柄袋をはめていたようです。

 近江彦根藩35万石井伊家の行列も例外ではなく、このため、水戸藩士関鉄之介を総指揮者とした水戸藩および薩摩藩の浪士が襲撃した際には、咄嗟に対応できなかったと云われています。
 となり村名所あんない(15)−千代田村(3)−桜田門外

 外桜田門

 井伊家は初代藩主井伊直政(1561〜1602)以来の武門の誉れ高き譜代の名門で、特に「井伊の赤備え」と呼ばれる赤色に統一した武具を用い、天正12年(1584)の小牧長久手の合戦では先鋒として大活躍しました。

 そもそも甲斐武田の軍団のなかに、旗指物、旌旗、鐙など馬具も朱色に統一し、武者の甲冑、具足、刀の鞘、鑓、弓矢、袋物まで朱一色に塗りつぶした一団があり、これが「甲軍の赤備え」と呼ばれ勇名を馳せました。この赤備えを編成したのが、飯富(おぶ)兵部少輔虎昌でした。

 天正10年(1582)の武田滅亡後、徳川家康の命によりこれらの赤備えの軍団は井伊直政の配下になり、天正12年(1584)の小牧長久手の合戦、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦、2代直孝のもと、慶長19年(1614)と元和元年(1615)の大坂の陣など、徳川幕府確立にいたる主要な合戦で抜群の戦功を立て、その名を高めました。

 しかし、この武門の誉れ高き軍団も、慶応4年(1868)の鳥羽伏見の戦いでは慣例により幕府軍の先鋒となりましたが、真っ先に潰走し、あとには「井伊の赤備え」の甲冑が累々と遺棄してあったということです。

 さて、桜田門外で藩主が襲撃され、あまつさえ首を斬り落とされて持ち去られたことは、彦根藩にとっては最大の恥辱で、藩邸に残っていた藩士や国元の藩士達も激昂し、一時は江戸の水戸藩邸はもとより水戸まで押し寄せる情勢であったようですが、幕府の厳命により押さえられたとのこと。

 これが逆の立場であれば、水戸藩士は、少なくとも江戸の彦根藩邸を襲撃していたことでしょう。

 恐るべし、水戸藩士!

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Posted by 嘉穂のフーケモン at 22:59│Comments(0)となり村名所あんない
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