2005年04月03日
となり村名所あんない(14)−港村(5)−有章院霊廟二天門
有章院霊廟二天門
(旧暦 2月25日)
隠元忌 日本黄檗宗の開祖・隠元禅師の寛文13年(1673)の忌日。 明の禅僧で、承応3年(1654)に渡来し、隠元豆など様々なものを日本にもたらした。
都営三田線御成門駅A1出口から南に向かって25mほど行くと、塗装の剥げかかった如何にも古そうな門がポツンと建っています。
東京プリンスホテルの一角で、なんでこんな所に由緒のありそうな古めかしい門が建っているのかと不思議に思っていましたが、調べてみると、ここは戦前には徳川家の壮大な霊廟があったところでした。
旧徳川将軍家霊廟は「御霊屋」ともよばれ、かつては芝増上寺大殿の南北(左右)に建ち並び、墓所・本殿・拝殿といった多くの施設は国宝に指定されていました。
しかし、昭和20年(1945)3月10日未明の東京大空襲で北廟68棟が被災、5月25日のB29爆撃機470機による山の手方面への大空襲で南廟28棟が被災、壮大華麗な将軍霊廟はその大半が焼失してしまい、わずかに残った建物もその指定を解除されてしまいました。 続きを読む
2005年03月19日
となり村名所あんない(13)−文京村(2)-赤門
御守殿門
(旧暦 2月10日)
東京大学(本郷7丁目)のシンボル「赤門」は、11代将軍家斉(在1787〜1837)の娘溶姫(やすひめ)が、文政10年(1827)、加賀藩102万5千余石第13代前田斉泰(なりやす)に嫁いだときに造営された薬医門で、両側に唐破風造りの番所があり、千鳥の棟瓦には三葉葵の徳川家の紋、軒の丸瓦には前田家の梅鉢の家紋があしらわれた最高の格式の武家屋敷門です。
将軍家の権勢を象徴する丹塗りの門としては現存する唯一のもので、国の重要文化財に指定されています。
我が板橋村でも金沢との交流姉妹都市を結んでおり、何とか板橋村を観光面でアピールしたいのですが、如何せん、文京村は上屋敷、板橋村は下屋敷、文京村は東京大学、板橋村は「嘉穂のフーケモン」の邸宅(?)と知名度においては全く比較になりません。残念! 続きを読む
2005年03月12日
となり村名所あんない(12)−豊島村(2)−徳栄山本妙寺
(旧暦 2月 3日)
菜の花忌 昭和前期の詩人・伊東静雄の昭和28年(1953)の忌日。 季節の花に因み「菜の花忌」と呼ばれる。
「火事と喧嘩は江戸の華」と云われますが、帝都東京ほど近世から現代にかけて火事という大災害に遭った都市もめずらしいでしょう。
江戸時代の続いた265年のうち、江戸では、火元から長さ15町(約1636m)以上焼いた大きな火事が96回あり、 3年に1回は大火、7日に1回は小火(ぼや)があったと云います。
明暦3年(1657) - 明暦の大火(振袖火事)
明和9年(1772) - 明和の大火(行人坂の火事)
文化3年(1806) - 文化の大火(芝車坂の火事)
以上を「江戸三大大火」というそうです。
他に、主な大火として以下のような火事がありました。
天和2年(1682) - 天和の大火(お七火事)
元禄11年(1698) - 勅額火事(中堂火事)
元禄16年(1703) - 元禄の大火(水戸様火事)
安政2年(1855) - 安政の大地震による大火 続きを読む
2005年02月15日
となり村名所あんない(11)-千代田村(2)-二重橋と伏見櫓
皇居二重橋と伏見櫓
(旧暦 1月 7日)
兼好忌 「徒然草」の作者として 知られる卜部兼好の正平5年(1350)の忌日。
皇居前広場から皇居正門を経て新宮殿に至る二重橋濠には、二つの橋が架かっており、手前の橋が「正門石橋」(めがね橋)、奥の橋が「正門鉄橋」(二重橋)です。
「二重橋」は一般にこの二つの橋を総称して言われていますが、厳密には奥の橋(正門鉄橋)を指しています。
江戸時代には、奥の橋の「西丸下乗橋」が「二重橋」と呼ばれており、木造橋だった江戸時代には堀が深くて、そのままだと橋が架けられなかったため、橋の下段に通行できない橋を作り、それを土台にして上に橋を架け、上下に二つ重なった橋ということで二重橋というのが元々の云われだそうです。 続きを読む
2005年01月21日
となり村名所あんない(10)-港村(4)-浅野さんちのお墓
播州赤穂藩主 浅野内匠頭長矩之墓
(旧暦 12月12日)
元禄14年(1701)3月14日、江戸城中大廊下「松の廊下」で高家筆頭4,200石・従四位上・吉良上野介義央(1641〜1702)に刃傷に及んだ播州赤穂藩5万石・従五位下・浅野匠頭長矩は、陸奥一関藩3万石・田村右京大夫建顕(たけあき)邸に預けられ、即日切腹となりました。
一関藩は、仙台藩祖伊達政宗の孫・田村宗良のニ男建顕が岩沼から移り、以後、幕末まで田村家の領するところとなりました。
浅野匠頭長矩が吉良上野介義央に刃傷に及んだとき、田村右京大夫建顕は奥詰兼奏者番として江戸城内にありましたが、老中の命でその屋敷に長矩を預かることになりました。 続きを読む
2005年01月14日
となり村名所あんない(9)-港村(3)-高松宮邸
厳重警戒の高松宮邸
(旧暦 12月 5日)
帝都で一番勾配の急な坂といわれ、都電もあえぎあえぎ上った魚藍坂を駆け上がり、二本榎通りを右折して200mほど行くと、右手に高松宮邸があります。
周囲を高い塀に囲まれたこの一角は、江戸時代には肥後熊本藩54万石細川越中守の中屋敷がありました。
高松宮宣仁(のぶひと)親王(1905〜1987)は、大正天皇(当時は皇太子嘉仁親王)の第3皇子として、青山御所(現在の迎賓館/旧東宮御所)で誕生し、幼称を光宮(てるのみや)といいました。
もともと高松宮家は、鎌倉時代の高松宮直久親王(1203〜1249)を祖とし、江戸時代初期と後期に2度の断絶を経て長らく途絶えていました。
しかし、大正2年(1913)、明治維新以来3代に渡って貢献してきた有栖川宮家の当主威仁(たけひと)親王が後継を持たぬまま危篤となり、また皇族の養子が禁ぜられたこともあって、大正天皇が特旨をもって宣仁(のぶひと)親王に高松宮を与え、高松宮家を再興して有栖川宮家の祭祀を受け継がせました。 続きを読む
2005年01月06日
となり村名所あんない(8)-北村(2)-亀の子束子西尾商店
亀の子束子西尾商店
(旧暦 11月26日)
良寛忌
旧中山道を豊島村巣鴨から北上すると、庚申塚の先で都電荒川線の踏切りをわたり、大正大学のところで明治通りを過ぎれば、北村の滝野川に入ります。
滝野川の旧道沿いの右側、滝野川6-14には、亀の子束子(たわし)で有名な西尾商店のクラシックな2階建て本社社屋があります。
亀の子束子、なつかしいなあ!
子供のころ、雑貨屋の店先には、亀の子束子の束が吊るしてありましたね。
そのころは、1個30円(昭和30年代)だったかな。
本社って、こんなところにあったんだ〜・・・・ 続きを読む
2005年01月02日
となり村名所あんない(7)-港村(2)-東京タワー
芝増上寺より東京タワーを望む
(旧暦 11月22日)
昭和33年(1958)6月に開業した「東京タワー」は、当時の日本の技術の粋と国産の材料により、総工費28億円をかけて建設されました。
建築学者内藤多仲(たちゅう)博士(1886〜1970)と日建設計株式会社が共同で設計、自立式鉄塔としては世界最高であり、高さ333mはなんと現在でも日本一を誇っています。
内藤博士は、日本の構造設計の父と呼ばれ、『架構建築耐震構造論』で学位を取得、この理論に基づいて構造設計された日本興業銀行本店や歌舞伎座が関東大震災でほとんど被害を受けなかったといわれています。 続きを読む
2004年12月28日
となり村名所あんない(6)-港村(1)-泉岳寺首洗井戸
泉岳寺 首洗い井戸
右は高輪泉岳寺
四十七士の墓どころ
雪は消えても消えのこる
名は千載の後までも
国文学者大和田建樹(1857〜1910)君作歌、大阪師範學校教諭多梅稚(おおのうめわか)(1869〜1920)君作曲で明治33年(1900)に三木書店より出版された「地理教育鐵道唱歌」第1集(東海道)の2番の歌詞でも有名な高輪泉岳寺は、播州赤穂藩5万3千石浅野家第3代藩主浅野内匠頭長短の菩提寺であることから、赤穂義士四十七士の墓所をはじめ赤穂義士にまつわる様々な物が残されています。
この「首洗井戸」もそのひとつですが、全国には「首洗井戸」として残されている史跡はかなりあるようで、神奈川県藤沢市藤沢本町の源義経公首洗井戸や横浜市戸塚区成正寺の護良親王首洗井戸などが地元では有名ですが、なんと泉岳寺にも「首洗井戸」があったんですね。 続きを読む
2004年12月24日
となり村名所あんない(5)-豊島村(1)-タネ屋街道
東京種苗株式会社
(旧暦11月13日)
慶長8年(1603)、幕府が開設されたことで江戸の人口は急激に増加しましたが、ここで発生したのが、食糧問題です。米は全国から取寄せることが出来ましたが、新鮮な野菜類は充足できず、多くの大名たちは、国元から百姓を呼寄せ、下屋敷などで野菜をつくらせました。
そんなわけで、江戸近郊の農村では換金作物として、ナスやダイコン、ゴボウなどの野菜栽培が盛んになり、大消費地江戸の供給基地として発達しました。 とくにナスは優れたものが出来たことから、「駒込ナス」として江戸庶民に好まれ、徳川幕府が発行した「新編武蔵風土記稿」(1828)にも記されています。 続きを読む
2004年12月16日
となり村名所あんない(4)-千代田村(1)-四谷見附
四谷見附跡
(旧暦11月5日)
ここには、江戸時代に枡形の見附門があり、四谷御門と呼ばれていました。
広辞苑によれば、見附とは「枡形を有する城門の外方に面する部分で、番兵の見張る所。江戸城は俗に三十六見附と称するが、四谷見附・赤坂見附・牛込見附など」と解説してあります。
現在残っているのは、北の一角の石垣のみです。
江戸時代には、譜代大名や旗本が見附番所で24時間厳重に警備をしており、暮六つ(午後6時頃)になると門の扉は閉められ、夜間は通行できなかったそうです。
また、甲州街道はここが起点となるそうです。 続きを読む
2004年11月29日
となり村名所あんない(3)-文京村(1)-東大安田講堂
東大安田講堂
(旧暦10月18日)
安田講堂といえば、私達の世代はどうしても東大安田講堂事件が頭を離れません。
先輩達は良く、「東大紛争のために東大入試が無かったので、北大に来たんだ」と言っていましたが、果たしてその真偽のほどは・・・・ 続きを読む
2004年11月24日
となり村名所あんない(2)-台東村(1)-上野恩賜公園
上野恩賜公園 西郷隆盛像
(旧暦10月13日)
江戸時代、寛永寺の境内で、明治維新後官有地となり、大正13年(1924)、宮内省を経て東京市に下賜された上野恩賜公園は、明治6年の太政官布達によって芝、浅草、深川、飛鳥山と共に日本で初めて公園に指定されています。 続きを読む
2004年11月18日
となり村名所あんない(1)-北村(1)-スポーツ科学センター
国立スポーツ科学センター内競泳練習プール
(旧暦10月7日)
日本勢が大活躍したアテネ・オリンピックも遠い昔のように思えますが、この大活躍の大きな要因といわれている国立スポーツ科学センターを見学しました。
当センターは板橋村の村境、高校サッカー球児の憧れ「西ヶ原サッカー場」の敷地内にあり、小職のランニングコースの途中にあります。
写真の競泳プールは、アテネ・オリンピック100m・200m平泳ぎで2冠となった北島康介選手がいつも練習していたプールです。
ビニールで覆われた第4コースは、低酸素状態を作り出す、世界でも最初のコースだそうです。
ちなみに、この施設は、めったなことでは見学できないそうです。
それから、4階の体操競技練習場では、アテネ五輪「鉄棒」で銅メダル、2004全日本社会人体操選手権大会で個人総合優勝を果たした米田功選手が、もくもくと「あん馬」の練習をしていました。