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2009年01月04日

となり村名所あんない(32)−港村(8)−愛宕山

 となり村名所あんない(32)−港村(8)−愛宕山

 「品川 日乃出」 歌川広重 『東海道五十三次』 by Wikipedia
 御殿山の麓を通過する大名行列の最後尾を描いている。現在、海は埋め立てられて、当時の月の名所の面影はない。

 (旧暦 12月 9日)

 我が板橋村より、となり村の名所の方が多く、書くことにも事欠かないのは仕方のないことですが、となり村の名所を書くためには、基本的にはランニングで現地まで行っているため、このところ、遠くまで走らなければなりません。
 しか~し、旧東京市内(23区内)ならば、何とかなるでしょう。

 と云うことで大晦日の早朝、走り納めに板橋宿からライバルの品川宿までLSD(Long Slow Distance:ゆっくりと長い時間をかけて一定距離を走るトレーニング)をしてきました。
 板橋宿(上宿)から日本橋までは2里25町33間(10.643km)、日本橋から品川宿(北宿)まで2里(7.855km)だから、あれこれ寄り道しながら20km程度走ったのでしょう。

 徳川家康は、天正18年(1590)、当時葦の生い茂る寒村に過ぎなかった江戸に入国して以来、諸街道の整備を進めてきました。
 江戸日本橋を基点として、1里を36町(4km弱)に統一し、江戸を中心とした東海道、中山道、甲州街道、日光街道、奥州街道の五街道に榎を植えた一里塚を築かせ、これを全国に広げました。

 また、江戸四宿と呼ばれる日本橋に最も近い宿場町を整備させました。

 face03 東海道品川宿 
   慶長6年(1601年)に中世以来の港町、品川湊の近くに設置され、北宿、南宿、新宿にわかれていました。

 face07 甲州街道内藤新宿
   当初、甲州街道には慶長7年(1602)に高井戸宿が設けられましたが、日本橋から4里(16km)余りもあり、距離が長く、旅人は難儀をしたとのことです。
   その後、寛永3年(1625)には住民の願いにより太宗寺門前の町屋(新宿2丁目)ができ、これを内藤宿と呼ぶようになりました。
   元禄11年(1698)、当時の浅草安倍川町の名主であった喜兵衛ほか同志4人が5,600両の上納とともに宿場開設を願い出て、翌年、内藤家の中屋敷の敷地を一部利用して宿場が開設されました。
 face05 中山道板橋宿
   江戸の境界にあたり、江戸後期には上宿(岩ノ坂:板橋本町27)の入り口にある大木戸より内側をもって「御府内」すなわち、「江戸」として扱われていました。

        本郷も かねやすまでは江戸の内

   現在の本郷3丁目の交差点角に「かねやす」は残っていますが、江戸の町並みは本郷までは瓦葺きがつづき、それから先の中山道は板や茅葺きの家が続いたために上記のような川柳が詠まれたのであって、板橋宿(武蔵国豊島郡下板橋村の一部)は江戸だったのです。
   したがって、私「嘉穂のフーケモン」の邸宅がある(なんちゃって)加賀藩下屋敷跡も、れっきとした江戸だったのです。

 face11 奥州街道(日光街道)千住宿
   本格的宿場となったのは寛永2年(1625)に日光道中の初駅となった段階からで、当初は足立郡淵江領の千住町、掃部(かもん)宿、万治元年(1661)からは千住大橋を越えて豊島郡小塚原町、中村町も加えられました。

 さて、板橋村から白山通り(豊島区西巣鴨交差点~千代田区皇居平川門交差点)を南下し、毎日新聞社があるパレスサイドビル横の平川門交差点から内堀通り(都道301号線)に入り、大手壕、皇居外苑、日比谷公園、虎ノ門を経て、愛宕山の下に至ります。

 愛宕山は天然の山で標高25.7m、山の上には、愛宕神社やNHK放送博物館があります。愛宕神社は慶長8年(1608)、徳川家康の命により江戸の防火の神様として祀られました。
 
 この愛宕神社へ登る「男坂」の急な86段の石段は「出世の石段」と呼ばれ、高低差20m、傾斜角37度で、講談で有名な讃州高松生駒讃岐守の家臣曲垣平九郎が3代将軍家光の命により騎馬でこの石段を駆け上がり、梅の一枝を取ってきて献上し馬術の名人として名をあげたという逸話が残されている石段です。

 となり村名所あんない(32)−港村(8)−愛宕山

 芝愛宕神社男坂

 この話は講談でもあり、単なる逸話かと思っておりましたが、実は明治以後、3人の人がこの石段の上り下りに成功しているそうです。

 1. 明治15年(1882) 石川清馬
   かつて仙台藩重臣の馬術指南役となっていた人物で、この成功により、面識のあった徳川慶喜から葵の御紋の使用を許されたとされています。

 2. 大正14年(1925) 岩木利夫
   陸軍参謀本部の馬丁(ばてい:馬の世話や口取りをする人)で、世話をしていた馬が廃馬になるために、演習の帰りに馬列の最後尾から石段を駆け上がり、怖がる馬を御しながら下りたと伝えられています。

 3. 昭和57年(1982) 渡辺隆馬
   「史実に挑戦」というテレビの特別番組でこの石段の上り下りに挑戦して成功しています。この時、安全対策のため、馬に安全帯をかけてクレーンで吊っていたのを記憶しています。
   渡辺隆馬氏は馬術のスタントマンで、映画などで馬術指導をされており、昭和59年(1984)の五社英雄監督による東映映画「北の蛍」にも名前が残されています。

 いづれにしても、人さえ上り下りするのに難儀な急階段を、馬で上り下りしたとはたいしたものです。
 馬は上るときより、下りるときの方が大変なようですね。

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Posted by 嘉穂のフーケモン at 23:19│Comments(0)となり村名所あんない
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