さぽろぐ

文化・芸能・学術  |札幌市中央区

ログインヘルプ


2007年12月22日

秋津嶋の旅(10)−畿内(2)−伏見(1)

 秋津嶋の旅(10)−畿内(2)−伏見(1)

 史蹟寺田屋(手前)と明治に再建された旅館寺田屋

 (旧暦 11月13日)

 京へ来たなら 一度はお寄り 伏見寺田屋 坂本龍馬 昔白刃の 裏梯子

 京都市伏見区南浜町に、維新史の上で有名な「寺田屋事件」の舞台となった「寺田屋」があります。
 しかし、当時の建物は戊辰戦争(1868~1869)の初戦に当たる鳥羽・伏見の戦い(1868年1月27日~30日)で京都南郊の上鳥羽、下鳥羽、竹田、伏見が主戦場となったために焼失しており、現在の南浜町263番地にある建物は当時の敷地の西隣に後になって建てられたものだそうです。
 な~んだ、今の建物の2階の柱などに「弾痕」や「刀傷」と表示してあったので、当時のそのままの建物であるかのように錯覚しておりました。

 したがって、当時の建物の敷地は、現在の建物の東隣にある南浜町262番地なのです。どおりで、庭のような入り口に、「史蹟寺田屋」の石碑が建っており、奥には「薩藩九烈士遺蹟志」の石碑があったのですね。
 紛らわしいなあ! 

 さてこの伏見の薩摩藩の定宿「寺田屋」では、幕末に通称「寺田屋事件」と呼ばれる2つの事件が起きています。
 1.文久2年(1862)に起きた、薩摩藩尊皇派等への上意討ち事件(勅命)
 2.慶応2年(1866)に起きた、伏見奉行所配下による坂本龍馬襲撃事件
 

 話は変わりますが、京都大学吉田キャンパスの総合博物館西側のスロープを上がったところに、「尊攘堂」と呼ばれる建物があります。
 この建物は、松下村塾出身の子爵品川弥二郎(1843~1900)が維新後、恩師吉田松陰(1830~1859)の遺書『留魂録』に記されていた遺志を汲んで、明治20年(1887)3月、京都高倉通錦小路上ルの元典薬頭三角氏の別邸約七百余坪を購入して別荘とし、これを増築して邸内の一室に尊攘志士の遺墨・遺品を蒐集し、神牌を祭り「尊攘堂」と称したことに由来しています。
 現在の建物は、品川弥二郎の死後、京都帝國大學に寄贈された松蔭の遺墨類をおさめるため、明治36年(1903)に建てられたものだそうです。

 この尊攘堂史料20種の中に、『京都維新史跡寫眞帖』(全48画像で各写真に参考引用文献つき)があり、現在は、京都大学附属図書館「維新資料画像データベース」としてインターネット上に公開されています。
 http://edb.kulib.kyoto-u.ac.jp/exhibit/ishin/kanren/sonjo_index_shashin.html
 そして、『京都維新史跡寫眞帖』の38枚目に、伏見寺田屋の写真(明治になって建て替えられた現在の寺田屋)と『京都維新史蹟』からの出典で、「寺田屋騷動と女將おとせ」の内容が記載されています。
 http://edb.kulib.kyoto-u.ac.jp/exhibit/ishin/kanren/doc/sonjo/shashin038.html

 伏見寺田屋騷動は、明治維新の魁(さきがけ)とて世に名高き事變なるが、事の起りは薩藩内の勤王志士中穩和急進兩派の内訌より生じたるなり。

 藩主島津久光は公武合體の穩和説を有せしが、急進説たる勤王討幕の人々は、文久二年春藩主久光の東上を機とし、急速京に入り九條關白、酒井所司代を襲撃し、二條城を衝き、幽閉中の尊融法親王の禁を解き、勤王討幕の魁(さきがけ)たらんとし、大阪藩邸に在りたる有馬新七、田中謙助、三島彌兵衞、柴山龍五郎、柴山愛次郎、西郷新吾、大山彌助、篠原冬一郎、是枝萬齋等は當時大阪堺町の旅舍魚太に淹留中の橋口壯助、橋口傳藏、弟子丸龍助、伊集院直右衞門等と協議し、同年四月二十三日、長藩出入の船宿にて三十石の淀舟二艘を艤し、之に分乘して淀川を遡り其の日の夕暮伏見に着し、旅館寺田屋に投宿し、各其の向ふ所を部署し、結束成りて將さに發せんとす。

 此事早くも薩州邸に知れたれば久光公大(おほひ)に驚き、奈良原繁、大山格之助、森岡善助、鈴木勇右衞門、江夏仲左衞門、道島五郎兵衞、山口金之進、鈴木昌之助の八人を伏見へ急行せしめ、之が設諭を命じたり。

 八人直(ただち)に寺田屋に向ひ君命を楯に有志の義擧を斷念せしめんと試み、激論數回に及ぶ。田中謙助は「我等は勤王の大義を斷行せんと欲し事已に此に至る。君命ありと雖も如何ともする能はず」と叫ぶや、氣早の五郎兵衞一聲高く「君命なり」と叫び、謙助の眉間へ斬付けたれば、謙助溜らず其場に殪(たお)る。
 一方金之進は又愛次郎を斬る。之を見て有馬新七等大に怒り、互に火花を散して戰ひ雙方に死傷者を生じ、戰何時果つべしとも知れざれば、奈良原繁は兩刀を投捨て兩肌を脱ぎ、「諸君も身共も同じく嶋津の臣、一應君命を聽く義務あるべし」と大喝して一同を鎭め、久光公の意を傳ふ。

 此時日既に暮れたれば一同久光公に陳謝し、後事を議せんとて京都錦小路の藩邸に引揚げたり。

 此騷動に同志の死する者有馬新七、田中謙助、柴山愛次郎、橋口壯助、橋口傳藏、弟子丸龍助、西田直五郎、森山新五左衞門、山本四郎の九人にて(田中、森山の二人は一旦蘇生し藩邸に幽閉せられ、幾くもなく君命違背の罪に依り屠腹せり)後日薩藩の九烈士として伏見鷹匠町大黒寺に葬らる。其他の諸士は國に歸り謹愼を命ぜられたり。

 世に之を寺田屋騷動と云ふ。此事變ありてより寺田屋の名は天下に轟けり。
 
 明治二十四年十二月殉難志士の功を追賞し、特旨を以て從四位を贈られ、尋(つい)で二十七年四月伏見の有志相謀り三十三回忌辰の祭典を修め、記念碑を寺田屋の遺趾に建て薩藩九烈士の遺蹟を表彰せり。
 『京都維新史蹟』


 やっぱりつづく


あなたにおススメの記事

同じカテゴリー(秋津嶋の旅)の記事画像
秋津嶋の旅(18)ー北陸道(1)ー金澤
秋津嶋の旅(17)ー東山道(1)ー旧制松本高等学校
秋津島の旅(15)−畿内(3)−石山御坊(1)
秋津嶋の旅(14)-西海道(2)-阿蘇火山
秋津嶋の旅(13)-西海道(1)-太宰府
秋津嶋の旅(13)-蝦夷が嶋(3)-すぐに来ちゃった函館
同じカテゴリー(秋津嶋の旅)の記事
 秋津嶋の旅(18)ー北陸道(1)ー金澤 (2012-06-28 10:01)
 秋津嶋の旅(17)ー東山道(1)ー旧制松本高等学校 (2011-07-09 22:35)
 秋津島の旅(15)−畿内(3)−石山御坊(1) (2010-06-24 20:17)
 秋津嶋の旅(14)-西海道(2)-阿蘇火山 (2009-05-14 11:04)
 秋津嶋の旅(13)-西海道(1)-太宰府 (2008-12-19 22:50)
 秋津嶋の旅(13)-蝦夷が嶋(3)-すぐに来ちゃった函館 (2008-11-22 20:57)
Posted by 嘉穂のフーケモン at 23:21│Comments(0)秋津嶋の旅
※このブログではブログの持ち主が承認した後、コメントが反映される設定です。
上の画像に書かれている文字を入力して下さい
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。
削除
秋津嶋の旅(10)−畿内(2)−伏見(1)
    コメント(0)