2006年04月07日
板橋村ゆかりの人々(4)−源頼朝(1)
絹本着色伝源頼朝像(神護寺蔵)
(旧暦 3月10日)
放哉忌 俳人尾崎放哉(ほうさい)の大正15年(1926)の忌日。季語を含めない自由律俳句の代表的俳人として、同じ萩原井泉水門下の種田山頭火と並び称される漂白俳人。山頭火と同様に酒に溺れて身を持ち崩し、不遇の晩年を送る。山好きの山頭火に対して海好きの放哉、作風は「動」の山頭火に対して「静」の放哉と評されている。
これでもう外に動かないでも死なれる 放哉
鎌倉幕府の初代征夷大将軍に任じられた源頼朝(1147〜1199)は、武家源氏の主流だった河内源氏嫡流の源義朝(1123〜1160)の三男として生まれ、父義朝が第77代後白河天皇(在位1155〜1158)の寵臣藤原信頼(1133〜1160)に加担した平治の乱(1159)で平清盛(1118〜1181)に敗れたため、13歳で伊豆国蛭ヶ小島に流されました。
治承4年(1180年)、後白河天皇の第三皇子以仁王(1151〜1180)が平家追討を命ずる令旨[りょうじ:皇太子、三后(太皇太后・皇太后・皇后)の命令を伝えるために出した文書]を諸国に雌伏する源氏に発し、4月27日、伊豆国の頼朝にも、叔父の源行家(1145〜1186)より令旨が届けられます。
以仁王は源頼政(1104〜1180)らと5月に挙兵しましたが、宇治川の戦いで平清盛の四男平知盛(1152〜1185)の平家軍2万に破れ、以仁王、頼政の長男仲綱らが討死、頼政は平等院で自害してしまいました。
清盛は令旨を受けた諸国の源氏を討とうとしますが、頼朝は逆に伊豆国司平時忠の目代に任ぜられ、現地に流されていた頼朝の監視役となった山木兼?(?〜1180)を討ち、平家打倒の兵を挙げる決意を固めます。 続きを読む