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2006年04月11日

北東アジア(26)−第一次上海事変(3)

 北東アジア(26)−第一次上海事変(3)

 上海派遣軍(司令官;白川義則大将)侵攻図 9D;第9師団(金沢、植田謙吉中将)、11D;第11師団(善通寺、厚東篤太郎中将) 

 (旧暦  3月 14日)

 北東アジア(25)−第一次上海事変(2)のつづき

 上海における中国第十九路軍の抵抗は烈しく、海軍陸戦隊は苦戦していました。このような緊迫した状況の中、昭和7年(1932)2月1日、海軍大臣大角岑生大将から提出された陸軍出兵の議は、芳沢謙吉外相、荒木貞夫陸相との三相協議で合意され、金沢の第九師団と久留米の第十二師団混成第二十四旅団が派遣される事になりました。

 旅団長下元熊弥少将指揮の混成第二十四旅団は、久留米第十二師団に所属する歩兵第十四聯隊第二大隊(小倉)、歩兵第二十四聯隊第一大隊(福岡)、歩兵第四十六聯隊第一大隊(大村)と野戦重砲兵第二旅団の独立山砲兵第三聯隊第二大隊(久留米)を基幹として編成されていました。
 旅団は、巡洋艦5隻、駆逐艦6隻に分乗して、2月7日上海に到着し、呉淞(ウースン)鉄道桟橋から上陸しました。

 一方、師団長植田謙吉中将指揮下の金沢第九師団は2月9,10日に宇品港を出港し、第一梯団は2月13日から、第二梯団は2月14日から、長江と黄浦江との合流点に位置する上海港および呉淞(ウースン)鉄道桟橋から上陸しました。

 植田師団長は英国公使ランプソンの斡旋で、師団参謀長田代皖一郎少将をフランス租界の『中国聯誼社』に派遣して第十九路軍参議范其務(はんきむ)と会見させ、中国側の自発的撤退を勧告させましたが、当然のことながら中国側は日本側の撤兵要求には一切応じませんでした。

 2月18日、植田師団長は第十九路軍長蔡廷鍇に対し、2月20日午前7時までの第一線からの撤退と夕刻午後5時までの各租界の境界線より20㎞の地域外への撤退を求める最後通牒を通告しましたが、「第十九路軍は中華民国政府の指揮下に属し、軍の行動に関しては中国政府以外に命令する権利を有するものなし。」との回答が届けられました。
 『第十九路軍抗日血戦史料』によれば、第十九路軍(広東派軍)首脳部が「血戦」を決意したのは、「抗日戦」こそが広東派のためのみならず国家のための「義挙」になると見定めていたからでした。そしてその理由は、以下の3点に依りました。

 1.「九一八事変(満洲事変)」における張学良指揮下の東北軍の不抵抗が中国に災難をもたらし、「中国軍人の価値」についての「国際的蔑視」を招いた。この過ちは訂正されねばならない。

 2.上海で抵抗すれば英米仏各国の干渉は必然であり、それによって「敵」日本の「横暴行為」を掣肘できる。

 3.装備は日本軍に劣るが、非戦闘員を巻き込む市街戦になれば、「敵」の飛行機、大砲の活躍を制限できる。


 クリークや地物を利用して築かれた中国軍陣地は堅固でまたよく秘匿されており、そこに立てこもる第十九路軍の戦意は強硬で、2月20日午前7時30分から開始された戦闘においては約4万人の中国軍将兵は頑強に抵抗し、日本軍は重点攻撃目標の江湾鎮を抜くことができませんでした。

 北東アジア(26)−第一次上海事変(3)

 Chinese 19th Route Army in defensive position.
 上海租界へ迫る第19路軍

 北東アジア(26)−第一次上海事変(3)

 Chinese military police in combat.
 戦闘に加わる中国側憲兵

 両軍の戦闘は激烈を極め、特に金沢歩兵第七聯隊第二大隊長空閑昇少佐(陸士22期)は「右腋下ヨリ背部」への貫通銃創により意識不明のまま壕内に取り残されて捕虜となり(停戦後の3月16日に日本側に送還され、3月28日に拳銃自決)、また2月22日の混成第二十四旅団工兵第十八大隊第二中隊第二小隊の廟行鎮(びょうこうちん)鉄条網爆破の際の爆死(爆弾三勇士)など、激戦がつづきました。

 まだつづく

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Posted by 嘉穂のフーケモン at 22:12│Comments(0)歴史/北東アジア
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