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2006年08月28日

雑司ヶ谷霊園(1)−あらまし

 雑司ヶ谷霊園(1)−あらまし

 小雨に煙る閑静な雑司ヶ谷霊園 

 (旧暦閏-7月 5日)

 道元忌  曹洞宗の開祖で、『正法眼蔵』87巻を著し、傘松峰大仏寺(後の吉祥山永平寺)を開いた禅僧道元の建長5年(1253)の忌日

 池袋のサンシャインシティの横を走る首都高速5号池袋線の下を500mほど南に下ると都電荒川線の雑司ヶ谷の停留所があり、そのそばに総合面積106,110㎡、使用者数約9,000人もの一般埋蔵施設他を有する東京都立雑司ヶ谷霊園の閑静で宏大な敷地が広がっています。

 都立雑司ヶ谷霊園は、明治7年(1874)9月1日に開設されたもと雑司ヶ谷旭出町墓地を東京府が引き継ぎ、昭和10年(1935)に「雑司ヶ谷霊園」に名称が変更されたものです。

 徳川幕府は、寛永12年(1635)に寺請制度を制定して人々がいずれかの寺院の檀家となることを義務付け、その寺院の付属する墓地に各檀家の埋葬を許可してきましたが、明治政府は明治6年(1873)に従前の墓地といえども旧朱印内は埋葬を禁止する旨の布達を行いました。

 当時の江戸の市域は「御府内」と呼ばれ、正式な区域は文政5年(1822年)12月、備後福山藩11万石第5代藩主で江戸幕府では老中を務めた阿部正精(まさきよ、1775〜1826)によって、朱線で囲った地図とともに次のような通達によって定義されています。

 「書面伺之趣、別紙絵図朱引ノ内ヲ御府内ト相心得候様」

 • 東 … 中川限り
 • 西 … 神田上水限り
 • 南 … 南品川町を含む目黒川辺
 • 北 … 荒川・石神井川下流限り


 つまり、旧朱印内は、旧東京市の15区より若干広く、現在の豊島区、渋谷区、荒川区、北区、目黒区の一部、品川区の一部、板橋区の一部をも含む範囲でした。
 これに対して市民の不満が高まったため、明治政府は明治7年(1874)6月22日に「墓地令」を制定して青山神葬祭地ほか9か所を市民のための共葬墓地として指定しました。
 
 その指定を受けて東京府は、東京会議所(現在の東京商工会議所)に命じて、指定9か所のうち、青山、同立山、雑司ヶ谷、染井、亀戸、谷中の6か所を造成、明治7年(1874)9月1日に開設し、これに関するすべての事務を東京会議所に委任しました。その後明治9年(1876)に、墓地の造成、管理事務は会議所から東京府に引き継がれています。

 明治22年(1889)には、市町村制の施行に伴い東京市に移管され、同年5月に青山(立山を含む)、雑司ヶ谷、染井、谷中の4墓地が市区改正設計における公共墓地に指定されています。

 その後、昭和10年(1935)に「雑司ヶ谷霊園」と名称が変更され、現在は財団法人東京都公園協会が管理しています。

 江戸時代後期の文化、文政期(1804〜1829)に、林述斎(1768〜1841)ら昌平坂学問所地理局によって編まれた地誌である『新編武蔵風土記稿』の巻之九 豊島郡之一 総説 雜司ヶ谷村によれば、雜司ヶ谷の名前の由来は下記のようなものだそうです。

 雜司ヶ谷村は古(いにし)へ村内法明寺の雜司料なりしゆへ村名起こりしとも、又小日向(こびなた)金剛寺の雜司料なりしとも云(いふ)、又土人(土地の人)の説に元弘(1331〜1334)建武(1334〜1336)の禁中(宮中)の雜士柳下若狭・長島内匠・戸帳平次左衛門なと云もの、故有て當村に土着しければ、雜士ヶ谷と唱し由、其子孫今も村民に殘れりと云々。

 又この地には、安政年間(1854〜1860)に将軍の御座所としての御用屋敷や御鷹部屋(お鷹狩りのための居留地)があったようです。

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Posted by 嘉穂のフーケモン at 22:35│Comments(0)雑司ヶ谷霊園
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