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2005年02月08日

日本(6)-浦上四番崩れ

 日本(6)-浦上四番崩れ

 再建された浦上天主堂と原爆で被爆した石像

(旧暦 12月30日)  

 節忌 大正4年(1915)の長塚節の忌日

 日本におけるキリスト教の歴史は、迫害の歴史といっても過言ではないでしょう。
 天正15年(1587)、豊臣秀吉によって発布された「バテレン追放令」は、布教は禁じるが貿易は歓迎するという不徹底なものでした。

 しかし、江戸期に入った慶長17年(1612)に幕府は禁教令を出し、キリスト教徒や宣教師に厳しい迫害を加えました。

 その後、寛永14年(1837)の島原の乱をきっかけに、弾圧はさらに強まり、とうとう寛永18年(1641)、オランダ商館を出島に移して外国人が出島以外のところに出ることを禁じ、幕府は鎖国体制を完成させて、幕末の開国まで、宣教はほぼ不可能な状況に陥いりました。

 この間、潜伏した信徒達は、仏教徒として振舞いながら、ひそかに祈祷文「オラショ」を唱え、また、メダイやロザリオ、聖像聖画、クルス(十字架)などの聖具を秘蔵し、生まれる子に洗礼を授けるなどして信仰を守りました。
 安政5年(1858)6月、日米修好通商条約により開港された長崎に渡来した外国人達は、元治元年(1864)、居留地に大浦天主堂を建てました。

 日本(6)-浦上四番崩れ

 大浦天主堂

 翌、慶応元年(1865)、浦上村(当時)のキリシタン達はそこにマリア像があると伝え聞いて訪れ、フランス人神父プチジャンとの歴史的対面が実現しますが、その後、葬儀に関して仏式の葬儀を拒絶したことから信仰が表面化し、慶応3年(1867)、「浦上四番崩れ」といわれる厳しい迫害を受け、3,394人にも及ぶ一村総流罪となりました。

 しかし、この事件が外交問題に発展し、明治6年(1873)のキリシタン禁制の廃止の要因ともなりました。

 ちなみに、「崩れ」とは、キリシタンである事が発覚、もしくは発覚しそうになる事件があったということで、四番と言うのは、浦上村では4回、「崩れ」があったということになります。

 「浦上一番崩れ」は寛政3年(1791)、庄屋が寺に石仏を寄進することを決め、村人に喜捨することを要求したところ、多くの村人が拒否し、拒否した者のうち19人がキリシタンであるということで捕らえらますが、証拠不十分で寛政7年(1795)に釈放されました。

 「浦上二番崩れ」は天保13年(1842)、転びキリシタンの密告により村の中心的人物等が捕らえらますが、知らぬ、存ぜぬ、で通し釈放されました。

 「浦上三番崩れ」は安政3年(1856)、密告により多くの指導者等が捕らえらました。転んで仏教徒となる者、殉教する者も出ましたが、この事件により、浦上村の帳方(太陰暦でキリシタンの暦をつくる役)は廃止、水方(洗礼を授ける役)は3人殉教、ドミンゴ又市のみが生き残りました。

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Posted by 嘉穂のフーケモン at 22:21│Comments(0)歴史/日本
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