2005年02月18日
北東アジア(8)-安禄山(2)
8世紀中頃の唐の勢力範囲と節度使の配置図
(旧暦 1月 10日)
かの子忌 画家岡本太郎の母で、作家・仏教研究家である岡本かの子の命日。
北東アジア(7)-安禄山(1)のつづき
北宋の大学者であり政治家の司馬光(1019〜1086)が第5代皇帝英宗(在位1063〜1067)の詔をうけ、19年かかって作成した294巻にも上る編年体の歴史書である『資治通鑑』《前403年に韓・魏・趙が晋を滅ぼしたときより筆をおこし、959年(後周、世宗の顕徳6年)までの1362年間を記述》によれば、その10節度使と駐在地及び兵力は以下のようになります。
1. 安西節度使 亀茲 2万4千
西域を鎮撫し、亀茲、焉耆、于闐、疏勒4鎮を統轄し、亀茲城を司令部とした。
2. 北庭節度使 庭州 2万
突騎施、堅昆を防衛するため、瀚海軍(北庭都護府、今の新疆ウイグル自治区ウルムチ東北東140キロ。城内に兵力1万2千)、天山軍(西州、今の新疆ウイグル自治区トルファン城内に兵5千)、伊吾軍(伊州、今の新疆ウイグル自治区ハミ市西北160キロ)の3個駐屯軍を統轄し、伊州、西州の2州の境に駐屯部隊を置き、北庭都護府に司令部を置いた。
3. 河西節度使 涼州 7万3千
吐蕃、突厥の連携を防ぐために、赤水、大斗、建康、寧寇、玉門、墨離、豆盧、新泉の8個駐屯軍と張掖、交城、白亭の3個守捉を統轄した。凉州(河西節度使。姑蔵。甘粛省武威)、粛州(酒泉。甘粛省酒泉)、瓜州(晋昌。甘粛省安西の東南)、沙州(敦煌。甘粛省燉煌)、会州(甘粛省靖遠)の5州の境に駐屯し、涼州に司令部を置いた。
4. 朔方節度使 霊州 6万4千7百
突厥からの侵入を防衛するため、経略、豊安、定遠の3個駐屯軍、3受降城(西、中、東受降城が陰山山脈の南にそって設けられた)、安北と単于の2都護府を統轄、霊州、夏州、豊州の3州の境に駐屯部隊を置き、霊州に司令部を置いた。
5. 河東節度使 太原 5万5千
朔方節度使とたがいに連携し、突厥の侵入を防いだ。天兵、大同、横野、岢嵐の4個駐屯軍と雲中守捉を統轄し、太原府の忻州、代州、嵐州の3州の境に駐屯し、太原府に司令部を置いた。
6. 范陽節度使 幽州 9万1千4百
奚、契丹を制圧するため、経略軍、威武軍、清夷軍、静塞軍、恆陽軍、北平軍、高陽軍、唐興軍、横海軍の9個駐屯軍を統轄し、幽州、薊州、嬀州、檀州、易州、恆州、定州、漠州、滄州の9州の境に駐屯し、幽州に司令部を置いた。
7. 平盧節度使 営州 3万7千5百
室韋、靺鞨を鎮撫するため、平盧、盧龍の2個駐屯軍と楡関守捉、それに安東都護府を統轄し、営州、平州の2州の境に駐屯し、営州に司令部を置いた。
8. 隴右節度使 鄯州 7万5千
吐蕃からの侵入を防備するため、臨洮軍、河源軍、白水軍、安人軍、振威軍、威戎軍、漠門軍、寧塞軍、積石軍、鎮西軍の十個駐屯軍と綏和、合川、平夷の3個守捉を統轄し、鄯州、廓州、洮州、河州の境に駐屯させ、鄯州に司令部を置いた。
9. 剣南節度使 成都 3万9百
西は吐蕃の侵攻を防ぎ、南は蛮獠を安撫するため、天宝軍、平戎軍、昆明軍、寧遠軍、澄川軍、南江軍を統轄し、益州、翼州、茂州、当州、巂州、柘州、松州、維州、恭州、雅州、黎州、姚州、悉州の13州の境に駐屯し、益州に司令部を置いた。
10. 嶺南五府節度使 広州 1万5千4百
夷人と獠人を安撫するため、経略軍、清海軍の2個軍と、桂府、容府、巂府、安南府の4個府を統轄し、司令部は広州に置いた。
これら十個節度使と経略使以外に、さらに長楽経略使は福州刺史が兼任し、兵力は千5百人。新羅対策として、東莱守捉は莱州刺史が兼任し、東牟守捉は登州刺史が兼任、兵力は各千人でした。
総じて、藩鎮(節度使の組織、軍区)兵の総兵力は49万人、軍馬は8万余頭と膨大な数に上りました。
このうち安禄山は河東、范陽、平盧の三節度使を兼務していました。
第6代皇帝玄宗(685〜762)(在位712〜756)の失敗は、一人に三節度使を兼務させたことにあると云われています。
安禄山(705〜757)は営州(遼寧省朝陽市)柳城の人で、外国人同士の混血という意味の『雑胡』と云われています。父の安延偃(えんえん)は中央アジアの康国(サマルカンド)、母は突厥の阿史徳氏の出身とされ、6種の言語を操ったということです。
彼はこのバイリンガルの特技を生かして、交易の斡旋などをする『互市牙郎』(ごしがろう)という官職に就きました。
これを足掛かりに、29歳で幽州節度使・張守珪に認められて部将となり、戦功を立てて節度副使・営州刺史に累進し、その仮子(養子)となりました。
その後安禄山は、中央の視察官に贈賄して朝廷へのつてを得ると、時の宰相李林甫(?〜752)に取り入って玄宗に謁し、巧みな自己宣伝によって玄宗の寵愛を獲得し、玄宗に気に入られました。
天寶元年(742)、ついに新しく設けられた平盧節度使に任ぜられ、天寶3載(744)(この年から「年」を「載」と変更した)には、范陽節度使を兼ね、さらには7年後の天寶10載(751)には河東節度使をも兼ねました。
以下つづく
西域を鎮撫し、亀茲、焉耆、于闐、疏勒4鎮を統轄し、亀茲城を司令部とした。
2. 北庭節度使 庭州 2万
突騎施、堅昆を防衛するため、瀚海軍(北庭都護府、今の新疆ウイグル自治区ウルムチ東北東140キロ。城内に兵力1万2千)、天山軍(西州、今の新疆ウイグル自治区トルファン城内に兵5千)、伊吾軍(伊州、今の新疆ウイグル自治区ハミ市西北160キロ)の3個駐屯軍を統轄し、伊州、西州の2州の境に駐屯部隊を置き、北庭都護府に司令部を置いた。
3. 河西節度使 涼州 7万3千
吐蕃、突厥の連携を防ぐために、赤水、大斗、建康、寧寇、玉門、墨離、豆盧、新泉の8個駐屯軍と張掖、交城、白亭の3個守捉を統轄した。凉州(河西節度使。姑蔵。甘粛省武威)、粛州(酒泉。甘粛省酒泉)、瓜州(晋昌。甘粛省安西の東南)、沙州(敦煌。甘粛省燉煌)、会州(甘粛省靖遠)の5州の境に駐屯し、涼州に司令部を置いた。
4. 朔方節度使 霊州 6万4千7百
突厥からの侵入を防衛するため、経略、豊安、定遠の3個駐屯軍、3受降城(西、中、東受降城が陰山山脈の南にそって設けられた)、安北と単于の2都護府を統轄、霊州、夏州、豊州の3州の境に駐屯部隊を置き、霊州に司令部を置いた。
5. 河東節度使 太原 5万5千
朔方節度使とたがいに連携し、突厥の侵入を防いだ。天兵、大同、横野、岢嵐の4個駐屯軍と雲中守捉を統轄し、太原府の忻州、代州、嵐州の3州の境に駐屯し、太原府に司令部を置いた。
6. 范陽節度使 幽州 9万1千4百
奚、契丹を制圧するため、経略軍、威武軍、清夷軍、静塞軍、恆陽軍、北平軍、高陽軍、唐興軍、横海軍の9個駐屯軍を統轄し、幽州、薊州、嬀州、檀州、易州、恆州、定州、漠州、滄州の9州の境に駐屯し、幽州に司令部を置いた。
7. 平盧節度使 営州 3万7千5百
室韋、靺鞨を鎮撫するため、平盧、盧龍の2個駐屯軍と楡関守捉、それに安東都護府を統轄し、営州、平州の2州の境に駐屯し、営州に司令部を置いた。
8. 隴右節度使 鄯州 7万5千
吐蕃からの侵入を防備するため、臨洮軍、河源軍、白水軍、安人軍、振威軍、威戎軍、漠門軍、寧塞軍、積石軍、鎮西軍の十個駐屯軍と綏和、合川、平夷の3個守捉を統轄し、鄯州、廓州、洮州、河州の境に駐屯させ、鄯州に司令部を置いた。
9. 剣南節度使 成都 3万9百
西は吐蕃の侵攻を防ぎ、南は蛮獠を安撫するため、天宝軍、平戎軍、昆明軍、寧遠軍、澄川軍、南江軍を統轄し、益州、翼州、茂州、当州、巂州、柘州、松州、維州、恭州、雅州、黎州、姚州、悉州の13州の境に駐屯し、益州に司令部を置いた。
10. 嶺南五府節度使 広州 1万5千4百
夷人と獠人を安撫するため、経略軍、清海軍の2個軍と、桂府、容府、巂府、安南府の4個府を統轄し、司令部は広州に置いた。
これら十個節度使と経略使以外に、さらに長楽経略使は福州刺史が兼任し、兵力は千5百人。新羅対策として、東莱守捉は莱州刺史が兼任し、東牟守捉は登州刺史が兼任、兵力は各千人でした。
総じて、藩鎮(節度使の組織、軍区)兵の総兵力は49万人、軍馬は8万余頭と膨大な数に上りました。
このうち安禄山は河東、范陽、平盧の三節度使を兼務していました。
第6代皇帝玄宗(685〜762)(在位712〜756)の失敗は、一人に三節度使を兼務させたことにあると云われています。
安禄山(705〜757)は営州(遼寧省朝陽市)柳城の人で、外国人同士の混血という意味の『雑胡』と云われています。父の安延偃(えんえん)は中央アジアの康国(サマルカンド)、母は突厥の阿史徳氏の出身とされ、6種の言語を操ったということです。
彼はこのバイリンガルの特技を生かして、交易の斡旋などをする『互市牙郎』(ごしがろう)という官職に就きました。
これを足掛かりに、29歳で幽州節度使・張守珪に認められて部将となり、戦功を立てて節度副使・営州刺史に累進し、その仮子(養子)となりました。
その後安禄山は、中央の視察官に贈賄して朝廷へのつてを得ると、時の宰相李林甫(?〜752)に取り入って玄宗に謁し、巧みな自己宣伝によって玄宗の寵愛を獲得し、玄宗に気に入られました。
天寶元年(742)、ついに新しく設けられた平盧節度使に任ぜられ、天寶3載(744)(この年から「年」を「載」と変更した)には、范陽節度使を兼ね、さらには7年後の天寶10載(751)には河東節度使をも兼ねました。
以下つづく
北東アジア(37)-瀟湘八景
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