2005年08月28日
北東アジア(18)−四庫全書
四庫全書 一部
(旧暦 7月24日)
道元忌 曹洞宗の開祖・道元禅師の建長5年(1253)の忌日
中国歴代皇帝は概して美術品の収集に熱心な方が多かったようですが、その代表が北宋の第8代皇帝徽宗(在位1100〜1125)と清朝第6代乾隆帝(在位1735〜1795)と云われています。
徽宗は自ら書画に巧みで、日本に渡来した『桃鳩図』(国宝/個人蔵)などを描いたのをはじめ、「痩金体」と呼ばれる書体を確立し、『詩帖巻』(絹本墨書/台北故宮博物院蔵)などを残しています。
『桃鳩図』
徽宗の膨大なコレクションの数々は、宣和3年(1120)に著された中国最初の宮廷収蔵書画目録である『宣和画譜』と『宣和書譜』に記録されていますが、『宣和画譜』20巻には、231名の画家の作品6,396点が収録され、『宣和書譜』20巻には152名の書家の作品1252点が収録されています。その他青銅器の図録である『宣和博古図』30巻も残されています。
徽宗につぐ皇帝コレクターは清朝第6代乾隆帝(在位1735〜1795)であり、自ら書画、典籍、骨董品を収集し、『西清古鑑』、『四庫全書』にその記録が残されています。
『四庫全書』は世界最大の漢籍叢書で、乾隆37年(1772)に蒐書(しゅうしょ)の詔勅が発せられ、翌年四庫全書の名が定まり、四庫全書館が設立されました。
10年の後の乾隆47年(1782)に完成しましたが、宮廷収蔵の書籍に加えて、全国各地から集められた書物の総数は、31万2千余冊に及びました。 続きを読む
2005年08月09日
北東アジア(17)−ソ連侵攻
ソ連軍対日参戦
(旧暦 7月 5日)
太祇忌(不夜庵忌) 与謝蕪村の友人で俳諧師・炭太祇(たんたいぎ)(不夜庵)の明和8年(1771)の忌日
昭和20年(1945)8月9日、長崎に2発目の原爆が投下される約11時間前の9日午前零時、ソ連は対日宣戦を布告し、日ソ国境(千島・樺太方面)および三方面の満ソ国境(東方面、北方面、西方面)から侵攻を開始しました。
この日までに国境付近に集結したソ連軍兵力は、地上兵力約157万名、火砲約26,100門、戦車約5,500輛、航空機約3,400機と記録されています。
メレツコフ元帥が指揮し東方面を担当する第一極東方面軍は、沿海州方面からウスリー河を渡河して沼沢と湿地帯を突破し、堅牢な日本軍の虎頭要塞を攻略する任務を帯びていまいした。
プルカーエフ大将が指揮する第二極東方面軍は、北から松花江沿いにハルピンを目指し、黒河方面から侵攻した赤旗第二軍は小興安嶺を越えてチチハル攻略を目指していました。
西からのザバイカル方面軍はマリノフスキー元帥が指揮し、大興安嶺の山岳地帯を踏破して満洲中部の平原地帯を目標にしていました。
折しも東部国境防衛を担当していた関東軍第一方面軍第五軍司令部(清水規矩中将)は、麾下の国境守備の3個師団の師団長、参謀長、主務参謀、主要な軍直轄部隊長を120㎞後方の掖河(えきが:軍司令部所在地)に集合させて、ソ連侵攻を想定した高等司令部演習を行っている最中の出来事でした。 続きを読む
2005年08月07日
北東アジア(16)−38度線
軍事境界線
(旧暦 7月 3日)
つい最近、朝鮮半島の南北分断は、日本が朝鮮半島を統治していた時代に、北緯38度線の北側は関東軍、南側は朝鮮軍が管轄していたため、日本敗戦後の武装解除については北緯38度線以北をソ連が、それ以南をアメリカが行って占領統治することが決定されたからだと在日北朝鮮のある人から聞かされました。
私「嘉穂のフーケモン」は、関東軍は旧満洲を管轄し、朝鮮半島は行政は朝鮮総督府、軍事は朝鮮軍が管轄していたと理解していたので、とても意外な感じがして調べてみました。すると、たしかにそのような説があることがわかりました。
1945年2月にクリミア半島のヤルタで行われたヤルタ会談において、第2次世界大戦後の朝鮮半島の北緯38度線による南北分断占領が決定されましたが、このことを進言したのはアメリカ国防総省の若い役人だったと云われています。その根拠が前述の関東軍と朝鮮軍の管轄よる分割かどうかは今の所定かではありませんが、韓国国会議員(ウリ党)でソウル大学国史学科を卒業し、東京大学大学院修士・博士課程を修了されている姜昌一(カン・チャンイル)氏の「朝鮮侵略と支配の物理的基盤としての朝鮮軍」という論文に興味深い記述があります。 続きを読む
2005年07月07日
北東アジア(15)−七七事変
昭和12年7月初旬の支那駐屯軍兵力配置図
(旧暦 6月 2日)
天の川いと川波は立たねども さもらひ難(かた)し近きこの瀬を
(巻8 1524 山上憶良)
天の川にひどく川波は立たないけれども、あなたに逢う機会をうかがうこともし難いのです、間近いこの瀬なのに。
今日は7月7日の七夕の日ですが、本来の七夕は旧暦の7月7日のお祭りで、今年の旧暦の7月7日は8月11日にあたるようです。
旧暦の7月7日(新暦8月11日)は立秋(今年は8月7日)以降なので、七夕は本当は秋のお祭りということになり、季語も秋になるそうです。
七夕といえば平塚と仙台が有名で、平塚は7月上旬に行い、仙台は月遅れの8月上旬に行われますが、新暦の7月7日は梅雨の最中なので雨の日が多く、旧暦の頃からあった行事を新暦の同じ日付で行うことには、日本古来の文化を阻害するものとして、私「嘉穂のフーケモン」は大いに憂えております。
季節感も何も在ったものではありません。「責任者呼んで来い!」でございます。
さて、68年前の民国26年(1937)の今日7月7日は、北平(北京)南西約15㎞の永定河に懸かる盧溝橋付近で、夜間演習中の支那駐屯歩兵第1聯隊第3大隊第8中隊付近で起きた発砲事件をきっかけに、支那駐屯歩兵第1聯隊第3大隊と第 29 軍第 37 師第 219 団の日中両軍が武力衝突し、やがて日中全面戦争に発展していった日です。 続きを読む
2005年05月07日
北東アジア(14)−五・四運動(5)
陳独秀(1879〜1942)
(旧暦 3月29日)
健吉忌 評論家・山本健吉の昭和63年(1988)の忌日。
五・四運動(4)のつづき
五・四運動にみられるこうした愛国運動の高まりは、中国知識人の意識の向上によるものとされています。
特に、民国4年(1915)9月15日に上海で創刊された陳独秀(1879〜1942)を編集責任者とする雑誌『新青年』(もとは『青年雑誌』、第2巻より改名)の果たした役割は大きく評価されています。
雑誌『新青年』の執筆者は主として北京大学の教官で、胡適、陳独秀、周作人(魯迅の弟:1885〜1967)は民国6年(1917)に北京大学の教授となり(陳独秀は文科長)、李大釗は同年北京大学図書館長(1920年教授)となり、魯迅は民国9年(1920)に北京大学の非常勤講師となっています。
発刊のことば「敬告青年」の中で、陳独秀は「民主」と「科学」のスローガンを掲げ、これらを汽船の両輪に例えました。 続きを読む
2005年05月06日
北東アジア(13)−五・四運動(4)
Students in Beijing rallied during the May Fourth Movement.
(旧暦 3月28日)
鑑眞忌 唐の高僧で、日本に渡って日本律宗を開いた鑑眞の天平宝字7年(763)の忌日。
万太郎忌、傘雨忌 小説家・劇作家・俳人・演出家の久保田万太郎の昭和38年(1963)の忌日。 俳号の傘雨から傘雨忌とも呼ばれる。
春夫忌 詩人・小説家・評論家の佐藤春夫の昭和39年(1964)の忌日。
五・四運動(3)のつづき
このデモで、安徽派の国務総理段祺瑞(1865〜1936)が実権を握る北京政府(北洋軍閥政府)は32人の学生を逮捕したため、翌日より北京の学生は罷課(授業ボイコット)に突入しました。
学生たちは街頭宣伝活動、講演活動を行い、また国産品を販売して日貨排斥を訴えました。天津では5月7日、学生連合会の結成が決議され、山東省でも市民5千人参加の国恥記念大会、上海でも国民大会が開催されました。
やがて運動は、天津・保定・上海・南京・武漢の各都市や広東・広西・福建・山西・陝西・浙江・江西・湖南・四川・東三省[黒竜江・吉林・遼寧(旧奉天)]の各省などに拡大し、7日から16日にかけて各界大会や学生によるデモ、集会が行われました。また、18日に北京学生連合会が一斉罷課(授業ボイコット)に突入すると、天津、上海、南京をはじめとして各地の学生も罷課(授業ボイコット)をはじめました。 続きを読む
2005年05月05日
北東アジア(12)−五・四運動(3)
1910年の東アジア勢力図
(旧暦 3月27日)
五・四運動(2)のつづき
大正6年(1917)2月、アメリカ合衆国が世界大戦に参戦しましたが、駐華公使ラインシュを通じて中国も共同の行動をとるように働きかけ、中国もドイツと国交を断絶して参戦しました。
世界大戦は、大正7年(1918)11月にキール軍港での水兵の反乱をきっかけに、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が退位し、オーストリアも降伏して、11月11日に第一次世界大戦は休戦します。
大正8年(1919)1月、パリのベルサイユ宮殿で講和会議が始まりましたが、中国政府が要求した二十一ヵ条(実際には13ヵ条と3交換公文)の取り消し、外国軍隊及び警察の撤退、関税自主権獲得等の諸要求は却下され、議題に持ち出されさえしませんでした。 続きを読む
2005年05月04日
北東アジア(11)−五・四運動(2)
中華民国大総統 袁世凱(1859〜1916)
(旧暦 3月26日)
五四中国青年節(中華人民共和国)
五・四運動(1)のつづき
この二十一ケ条の要求は、大正4年(1915)1月18日に中国政府(袁世凱政権)に提出されました。
袁世凱政権との本格的な交渉は2月2日から始まりましたが、この要求を受諾することは売国的行為であるとの国内批判を恐れた袁世凱政権は強く抵抗し、交渉は25回にも及んだと云われています。
この二十一ケ条要求の中で最も問題となったのは中国の主権を踏みにじる最後の第5号条項に関するもので、加藤外相は、中国国内世論はもとより列強の疑惑を避けるためあらかじめ要求の内容を英米などに知らせましたが、姑息にもそのときに第5号条項を伏せていたため、疑惑は却って強まってしまいました。 続きを読む
2005年05月03日
北東アジア(10)−五・四運動(1)
関東州(1921発行)
(旧暦 3月25日)
明治38年(1905)9月に締結されたポーツマス条約(日露講和条約)には、ロシアは関東州(旅順・大連を含む遼東半島南端部)の租借権を日本へ譲渡するという項目が含まれていましたが、 この関東州租借地は大正12年(1923)に中国に返還しなければならないことになっていました。
また、ロシアが自ら施設した東清鉄道の内、旅順−長春間の南満州支線(772㎞、1903年1月に完成)と、付属地の炭鉱の租借権を日本へ譲渡する項目も含まれていましたが、この南満州支線(1906年からは南満州鉄道株式会社)のうち安奉線(日露戦争中に物資輸送のために日本が建設した安東〜奉天間の鉄道)は大正12年(1923)に、その他の鉄道は昭和14年(1939)に、中国からの買い取り請求があれば、それに応じなければならない義務がありました。 続きを読む
2005年02月19日
北東アジア(9)-安禄山(3)
安禄山(705〜757)
(旧暦 1月 11日)
瓢々忌 小説家・尾崎士郎の昭和39年(1964)の忌日。 代表作『人生劇場』の主人公・青成瓢吉から瓢々忌と呼ばれる。
北東アジア(8)-安禄山(2)のつづき
945年に完成し、唐の成立(618年)から滅亡まで(907年)について書かれた『旧唐書(くとうじょ)』によれば、安禄山は機転が利く愛敬者で、体重は330斤あったと記録されています。唐代の1斤は約600gなので、何と198kgもあったことになります。
その腹は弛んで膝を過ぎたと云い、玄宗から「一体その中に何が入っているのか」と訊(き)かれ、「臣の腹中は、唯だ赤心のみ」と答えた話は有名です。
また、玄宗の寵姫・楊貴妃(719〜756)に取り入ってその義子になりたいなどと言い、参内すると先に楊貴妃に挨拶し、「蕃人は母を先にして、父をあとにいたします」と人を笑わせたそうです。
ひょうきん者で、開けっぴろげで、他人に警戒心をもたれない安禄山は、やすやすと玄宗と楊貴妃の心を掴んだと云います。 続きを読む
2005年02月18日
北東アジア(8)-安禄山(2)
8世紀中頃の唐の勢力範囲と節度使の配置図
(旧暦 1月 10日)
かの子忌 画家岡本太郎の母で、作家・仏教研究家である岡本かの子の命日。
北東アジア(7)-安禄山(1)のつづき
北宋の大学者であり政治家の司馬光(1019〜1086)が第5代皇帝英宗(在位1063〜1067)の詔をうけ、19年かかって作成した294巻にも上る編年体の歴史書である『資治通鑑』《前403年に韓・魏・趙が晋を滅ぼしたときより筆をおこし、959年(後周、世宗の顕徳6年)までの1362年間を記述》によれば、その10節度使と駐在地及び兵力は以下のようになります。 続きを読む
2005年02月17日
北東アジア(7)-安禄山(1)
7世紀中頃の唐の勢力範囲
(旧暦 1月 9日)
安吾忌 「白痴」「堕落論」などを著した新潟市出身の作家、坂口安吾の昭和30年(1955)の命日。
中国の唐王朝(618〜907)は、『藩鎮』およびその長官である『節度使』という制度を設けたことにより、その滅亡を早めたと云われています。
唐代の兵制は、当初、律令体制下で農民から徴発された府兵が長安や洛陽の警備と辺境防衛を担っていました。
このうち辺境防衛は、府兵が防人として3年交替で鎮・戌と呼ばれる辺境部隊に勤務していましたが、7世紀になると周辺諸国・諸民族の隆盛によって唐の周辺が圧迫され、防人を基本とする辺境防衛体制が成り立たなくなってきました。 続きを読む
2005年01月25日
北東アジア(6)-故宮博物院(2)
故宮博物院 台北郊外 士林外双溪
(旧暦12月16日)
北東アジア(5)-故宮博物院(1)のつづき
出宮という廃帝追放措置は、紫禁城とともに清朝財産の国有化を伴うので、臨時内閣はその資産を調査管理するために、李□瀛(いくえい)を委員長、汪兆銘、蔡元培、鹿鐘麟らを委員とする「弁理清室善後委員会」を発足させ、紫禁城の接収、宮廷文物の調査・登録を行いました。
そして1年後の民国14年(1925)10月10日、中華民国の革命記念日「双十節」に、「国立故宮博物院」発足式が乾清門前の広場で盛大に行なわれました。
民国20年(1931年)9月18日22時過ぎ、奉天(現在の中国遼寧省瀋陽)北方約7.5kmの柳条湖の南満州鉄道線路上で爆発が起き、線路が破壊されるという事件が起こりました。世に言う9.18事変(満州事変)の始まりです。
そして、同年12月22日、関東軍は錦州攻略を発動し、万里の長城線を越えて華北侵入を窺う恐れが出てきたため、「故宮博物院」の主要な文物は、戦火を避けて移送されることになりました。 続きを読む
2005年01月23日
北東アジア(5)-故宮博物院(1)
北京紫禁城
(旧暦 12月14日)
羅山忌
北京紫禁城の清朝財産管理にまつわる長い物語は、平成13年(2001)3月に亡くなった作家で戦史研究家の児島襄氏(1927〜2001)の作品『日中戦争』に詳しく書かれていますが、民国13年(1924)12月24日、乾清宮の最初に目につく脚踏台を「天第一号、二層木踏とう」と記録して、紫禁城内の文物登録が開始されました。
民国14年(1925)に出版された「弁理清室善後委員会点検レポート」によれば、当時の文物は総数117万件を超え、三代鼎彝(ていい)、古代玉器、唐・宋・元・明代の書と絵画、宋・元代の陶磁器、七宝、漆器、金銀器、木竹牙角匏彫(ほうちょう)、金・銅製の仏像、織物、装身具、家具などが含まれ、天下の珍宝が集まっていました。 続きを読む
2005年01月11日
北東アジア(4)-鉄函心史(てつかんしんし)(2)
墨蘭図 鄭思肖(1241~1318)
(旧暦 12月 2日)
1.11忌
鉄函心史(てつかんしんし)(1)のつづき
鄭思肖(ていししょう)は画家としても名高く、墨蘭画を得意としましたが、南宋滅亡後は自身を蘭に譬え、蘭を描いて蘭根を描かず、国土が異民族に掠奪されたことを風刺して、元王朝に対する激しい抵抗の精神を表しました。
日本に伝わる墨蘭図(大阪市立美術館・阿部コレクション)を見ると、たしかに根が描かれていないことがよく分かります。
「鉄函心史(てつかんしんし)」は、異民族支配に対する過激な反政府文書であったため、満州族王朝の清代になると、危険文書として禁書リストの中にあげられました。 続きを読む
2005年01月10日
北東アジア(3)-鉄函心史(てつかんしんし)(1)
桑原 隲蔵博士(1871〜1931)
(旧暦 12月 1日)
明の崇禎11年(1638)、中国江蘇省蘇州にある承天寺の古井戸を浚(さら)ったとき、寺の僧がひとつの鉄函(てつばこ)を発見しました。
その鉄函には錫匣(すずばこ)がはいっており、まわりに石灰が詰められ、さらに錫匣のなかには漆が塗られていました。
内緘(内側の封印)には、
大宋弧臣鄭思肖百拝封
とあり、外緘(外側の封印)には、
大宋世界無窮無極
大宋鉄函経
徳祐九年仏生日封
とありました。
「徳祐(とくゆう)」は南宋恭宗(きょうそう)の元号で、実際は南宋が滅亡したため2年で終わり、徳祐が九年になるのは1283年のことで、元の至元20年にあたります。
この日付が本物なら、鉄函は355年間も井戸の中に隠されていたことになります。 続きを読む
2004年12月30日
北東アジア(2)-元寇
The Mongol fleet destroyed in a typhoon, ink and water on paper, by Kikuchi Yōsai, 1847.
(旧暦11月19日)
ワシントン条約(絶滅のおそれのある野生動植物の種の国際取引に関する条約)で絶滅種に指定されている応援団ですが、東北大学や名古屋大学とともに、このところいつも絶滅が噂されていた九州大学応援団がかろうじて持ちこたえているようです。
九州大学応援団といえば、「観音様」という両手を合掌して頭の上に上げ、うさぎ跳びをして廻る荒行のため、跡を次ぐ種がいなくなった団体でしたが、いつの間にか細々ですが復活していました。
その彼らがうたう歌に、「元寇」があります 続きを読む
2004年11月28日
北東アジア(1)-高句麗・広開土王碑
好太王碑(広開土王碑)
昨年末から急きょ浮上した、「高句麗は古代中国の地方政権」という歴史観に関して、いま中韓論争が続いていますが、高句麗といえば広開土王碑(好太王碑)が有名ですね。
広開土王碑(好太王碑)は中国吉林省集安にあり、野原にポツンと野ざらしで立っている古い写真を見たことがありますが、いまは、世界文化遺産への登録申請を機に展示施設が整備されたようです。 続きを読む