2005年01月10日
北東アジア(3)-鉄函心史(てつかんしんし)(1)
桑原 隲蔵博士(1871〜1931)
(旧暦 12月 1日)
明の崇禎11年(1638)、中国江蘇省蘇州にある承天寺の古井戸を浚(さら)ったとき、寺の僧がひとつの鉄函(てつばこ)を発見しました。
その鉄函には錫匣(すずばこ)がはいっており、まわりに石灰が詰められ、さらに錫匣のなかには漆が塗られていました。
内緘(内側の封印)には、
大宋弧臣鄭思肖百拝封
とあり、外緘(外側の封印)には、
大宋世界無窮無極
大宋鉄函経
徳祐九年仏生日封
とありました。
「徳祐(とくゆう)」は南宋恭宗(きょうそう)の元号で、実際は南宋が滅亡したため2年で終わり、徳祐が九年になるのは1283年のことで、元の至元20年にあたります。
この日付が本物なら、鉄函は355年間も井戸の中に隠されていたことになります。
錫匣(すずばこ)の中味は、「心史」という激烈な反モンゴル文書でした。
蒙古支配下にあっては口にできないことを文章にして井戸に沈め、後世の人に語り伝えようとしたものでした。
この「鉄函心史」については、昔から、本物説と贋作説があり、清代の文学者袁枚(えんばい)(随園先生1716〜1797)は贋作説を、日本の京都帝国大学東洋史学の大先生桑原隲蔵(じつぞう)博士(1870〜1931)は本物説を唱えました。
「鉄函心史」を著し封印した鄭思肖(ていししょう)(1239〜1316)は、福建省連江の人、始め南宋に仕えましたが元軍の南下で辞し、南宋滅亡後は改名して宋の遺臣を以って任じました。
以下つづく
蒙古支配下にあっては口にできないことを文章にして井戸に沈め、後世の人に語り伝えようとしたものでした。
この「鉄函心史」については、昔から、本物説と贋作説があり、清代の文学者袁枚(えんばい)(随園先生1716〜1797)は贋作説を、日本の京都帝国大学東洋史学の大先生桑原隲蔵(じつぞう)博士(1870〜1931)は本物説を唱えました。
「鉄函心史」を著し封印した鄭思肖(ていししょう)(1239〜1316)は、福建省連江の人、始め南宋に仕えましたが元軍の南下で辞し、南宋滅亡後は改名して宋の遺臣を以って任じました。
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北東アジア(37)-瀟湘八景
北東アジア(36)-中國正史日本傳(2)-後漢書東夷列傳
北東アジア(35)-リットン報告書(3)
北東アジア(34)-リットン報告書(2)
北東アジア(33)-リットン報告書(1)
北東アジア(32)-奉天討胡檄(2)
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