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2005年05月04日

北東アジア(11)−五・四運動(2)

 北東アジア(11)−五・四運動(2)

 中華民国大総統 袁世凱(1859〜1916)

 (旧暦  3月26日)

 五四中国青年節(中華人民共和国)

 五・四運動(1)のつづき

 この二十一ケ条の要求は、大正4年(1915)1月18日に中国政府(袁世凱政権)に提出されました。

 袁世凱政権との本格的な交渉は2月2日から始まりましたが、この要求を受諾することは売国的行為であるとの国内批判を恐れた袁世凱政権は強く抵抗し、交渉は25回にも及んだと云われています。

 この二十一ケ条要求の中で最も問題となったのは中国の主権を踏みにじる最後の第5号条項に関するもので、加藤外相は、中国国内世論はもとより列強の疑惑を避けるためあらかじめ要求の内容を英米などに知らせましたが、姑息にもそのときに第5号条項を伏せていたため、疑惑は却って強まってしまいました。
 当然ながら交渉は難航しましたが、5月4日の元老・大臣会議での元老山縣有朋の意見も考慮して、5月5日第5号条項の撤回と最後通告発出を可決、日置駐華公使は5月7日に陸徴祥外交総長に面会を求め、回答期限は「5月9日午後6時」、それまでに「満足ナル回答」を得られなければ、日本は「必要ト認ムル手段」をとるとの「最後通牒」を手渡しました。

 5月9日、中華民国府はついに受諾し、5月25日、『山東省ニ関スル条約』(大正4年条約第2号) 、『南満洲及東部内蒙古ニ関スル条約』(大正4年条約第3号) が締結され、日本の火事場泥棒的とも云える強引な要求は成立して、日中の不幸な歴史が始まりました。
 
 中国国民の怒りに火をつけたこの『二十一箇条要求』とその強引な日本のやり方は、その後中国各地に澎湃として巻き起こった排日運動の原因となりました。

 特にマスコミは日本と政府の双方を「非難攻撃」する論陣を展開し、日置公使は、「当地発行二十余種ノ漢字新聞」が「悲憤慷慨ヲ極メタ」論調で次のように非難したと報告しています。

 「5月7日ハ、国民ノ屈辱ヲ受ケタル永久忘ルベカラザル記念日ナリ。国民ハ今後、宜シク臥薪嘗胆、大イニ発憤シテ自強ノ道ヲ講ジ、以テ他日此ノ恥辱ヲ雪(そそ)グノ覚悟ナカルベカラズ」

 そして、中国においては5月7日(最後通牒提出の日)と5月9日(受諾した日)が「国恥記念日」として、毎年デモなどの排日運動が展開されることとなりました。
 
 さらにつづく

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Posted by 嘉穂のフーケモン at 20:32│Comments(0)歴史/北東アジア
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