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2009年01月10日

北東アジア(35)-リットン報告書(3)

 北東アジア(35)-リットン報告書(3)
 
 関東軍司令官本庄繁大将 (1876〜1945)

 (旧暦 12月15日)

 北東アジア(34)-リットン報告書(2)のつづき

 さて、同報告書は、日中両国の紛争解決に向けて、第10章で大きく分けて以下のような提議を行っています。

 1. 東三省(遼寧省・吉林省・黒竜江省=満洲)は、中国中央政府の権力と自治地方政府の権力とを区分すべきである。この自治政府には、外交、税関、郵便等の中央政府に帰属する管理を除き、充分なる行政権が帰属される。

 2. 満洲は漸次非武装地帯とし、外国人教官の協力のもとに特別憲兵隊を組織すべきである。この憲兵隊は、東三省に於ける唯一の武装隊であるべきである。

 3. 自治政府の執政は適当数の外国人顧問を任命すべく、その内日本人が充分なる割合を占めることが必要である。しかし、これらの外国人顧問及び官吏の任用は、中国政府の受諾し得るべき形式により、中国の主権に合致する方法に於いて選任せらるべきである。

 4. 南満洲鉄道及び日本国民の既得権を保障しつつ、日中両国は「不可侵条約」、「通商条約」を結ぶべきである。もしソビエト連邦政府がこれに参加を求めるのであれば、別途三国協定中に適当なる条項を包含させればよい。

 
 こうして、245頁にわたる英文報告書は次のように結びます。

 Our work is finished.
 Manchuria for a year past has been given over to strife and turmoil.
 The population of a large, fertile and rich country has been subjected to conditions of distress such as it has probably never experienced before. ・・・・・・・・・・


 吾人の任務は終了せり。
 満洲は過去一年間争闘及び混乱に委せられたり。
 広大、肥沃且つ豊穣なる満洲の人民は恐らく曾て経験したることなき悲惨なる状態に遭遇せり。
 日支両国間の関係は仮装せる戦争関係にて将来に付いては憂慮に堪えざるものあり。
 吾人は右の如き状態を創造せる事情に関し報告せり。
 何人と雖も連盟の遭遇せる問題の重大性及び其の解決の困難に付き充分了知する所なり。
 吾人は其の報告を完了せんとする際新聞紙上において日支両国外務大臣の二個の声明を閲読せるが其の双方に付き最も重大なる一点を抜粋すべし。
 八月二十八日羅文幹(外交部長:外務大臣、1888~1941)は南京に於いて左の如く声明せり。  

 「支那は現事態の解決に対する如何なる合理的なる提案も連盟規約、不戦条約及九国条約の条章及び精神並びに支那の主権と両立すべきものたるを要し又極東に於ける永続的平和を有効に確保するものたるを要すと信ず。」

 八月三十日内田伯(外務大臣・伯爵内田康哉、1865~1936)は東京に於いて左の如く声明せりと伝えらる。

 「帝国政府は日支両国関係の問題は満蒙問題より更に重要なりと思惟す。」

 吾人は本報告書を終了するに当り右両声明の基調を為す思想を再録するを以て最も適当と思考するものなり。右思想は吾人の蒐集せる証拠、問題に関する吾人の研究、従って吾人の確信と正確に対応するものにして吾人は右声明により表示せられたる政策が迅速 且つ有効に実行せらるるに於ては必ずや極東に於ける二大国及び人類一般の最善の利益に於いて満州問題の満足なる解決を遂げ得べきを信ずるものなり。
 この報告書は、満洲国は承認されないとしたものの、日本の南満洲鉄道及び日本国民の既得権を保障したものであり、冷静に判断すれば日本にとって特別の不利益とはならないものでありました。
 しかし、すでに満洲国を承認していた日本はこの報告書の内容は到底受け入れられるものではないと反発しますが、昭和8年(1933)2月24日、国際連盟軍縮分館で行われた総会で同報告書は予想通り賛成42票、反対1票(日本)、棄権1票(シャム=タイ)、投票不参加1(チリ)の圧倒的多数で可決され、ついに日本は国際連盟脱退へとつきすすんでいきます。

 ただし、当時、満洲国を承認した国々は、日本は成り行き上当然ですが、エルサルバドル、ローマー教皇庁、イタリア、スペイン、ドイツ、ポーランド、ハンガリー、スロバキア、中華民国(汪兆銘政権)、ルーマニア、ブルガリア、フインランド、クロアチア、デンマーク、タイ、ビルマ、フイリッピン、ドミニカ、エストニア、リトアニア、ソ連(領事館開設)、自由インド仮政府(チャンドラ・ボーズ首班)の23カ国だけでした。

 昭和6年(1931)8月1日、満洲の緊迫した情勢の中にあって、菱刈隆大将(陸士5期、陸大16期、1871~1952)の後を受けて第9代関東軍司令官に就任した本庄繁中将(陸士9期、陸大19期、1876~1945)は、その着任50日後に柳条湖事件が起こり、否応なしに歴史の大渦に巻き込まれてしまいます。
 
 満洲事変発生当日の関東軍司令官本庄繁中将の日記が残されています。

 九月十九日 土曜 晴
 一、午前0時司令部に出頭(之より先き第二師團の奉天出動を電話にて令す)、各幕僚を集め、全線同時出動、奉天攻撃を命ず。
 次で司令部は直に奉天に出動を決し、一旦帰宅諸準備を為し、午前三時三十分各幕僚及歩兵第三十聯隊と共に出発す。(旅順駅)
 二、午前十二時過奉天着、一旦停車場に休憩の上、午後二時発直に東拓楼上の軍
 司令部に至る。
 三、午後六時軍務を終り、瀋陽館に帰る。
 四、払暁、我軍北大営を占領し、正午頃奉天城占領、次で東大営まで占領。
 五、此日長春の攻撃最も激烈


 本庄中将は、後に大将に昇進し、昭和8年(1933)4月からは侍従武官長に就任して昭和天皇に仕えていますが、昭和11年(1936)2月26日、二・二六事件が起こるや、昭和天皇の叛乱軍断固鎮圧の方針に対して叛乱軍将校に同情的な姿勢をとり、『御前に進むこと十三回』、青年将校の国を思う精神は認めてほしい旨を幾度も奏上して昭和天皇の不興を買い、「朕自ラ近衛師団ヲ率ヒ、此ガ鎮定ニ当タラン」と厳しい叱責を受けています。

 また女婿の山口一太郎大尉(陸士33期、1900~1961)が事件当日、叛乱軍に加わった歩兵第一聯隊の週番司令として間接的に事件に連座していたことから、事件後に侍従武官長を辞任し、待命、予備役編入して第一線を退いています。

 終戦直後、本庄大将は満州事変の最高責任者として既に自決の覚悟を決め遺書を作成していましたが、遺族・傷痍軍人援護と復員軍人の職業輔導の担当を委嘱されたので止むを得ず就任し、昭和20年(1945)11月、第二次A級戦犯容疑としてGHQから逮捕命令が出るや、「かねてから覚悟はしていた。十分責任を感じている」と言い残し、出頭命令最終日の11月30日に東京・青山の旧陸軍大学校内に置かれた補導会理事長室で割腹自決しています。

 多年軍ノ要職ニ奉仕致シナカラ御国ヲシテ遂ニ今日ノ如キ破局ニ近キ未曾有ノ悲境ヲ見ルニ立到ラシメタル仮令退役トハ云ヘ何共恐懼ノ至リニ耐ヘス罪万死ニ値ス
 満州事変ハ排日ノ極鉄道爆破ニ端ヲ発シ関東軍トシテ自衛上止ムヲ得サルニ出テタルモノニシテ何等政府及ヒ最高軍部ノ指示ヲ受ケタルモノニアラス全ク当時ノ関東軍司令官タル予一個ノ責任ナリトス
 爰ニ責ヲ負ヒ世ヲ辞スルニ当タリ謹テ聖寿ノ万歳、国体ノ護持、御国ノ復興ヲ衷心ヨリ念願シ奉ル
 昭和二十年九月 本庄 繁 花押


 まことに、数奇な運命をたどった将軍と云わねばなりますまい。

 おしまい

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Posted by 嘉穂のフーケモン at 20:29│Comments(0)歴史/北東アジア
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