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2005年08月09日

北東アジア(17)−ソ連侵攻

 北東アジア(17)−ソ連侵攻

 ソ連軍対日参戦

 (旧暦  7月 5日)

 太祇忌(不夜庵忌)  与謝蕪村の友人で俳諧師・炭太祇(たんたいぎ)(不夜庵)の明和8年(1771)の忌日

 昭和20年(1945)8月9日、長崎に2発目の原爆が投下される約11時間前の9日午前零時、ソ連は対日宣戦を布告し、日ソ国境(千島・樺太方面)および三方面の満ソ国境(東方面、北方面、西方面)から侵攻を開始しました。

 この日までに国境付近に集結したソ連軍兵力は、地上兵力約157万名、火砲約26,100門、戦車約5,500輛、航空機約3,400機と記録されています。

 メレツコフ元帥が指揮し東方面を担当する第一極東方面軍は、沿海州方面からウスリー河を渡河して沼沢と湿地帯を突破し、堅牢な日本軍の虎頭要塞を攻略する任務を帯びていまいした。

 プルカーエフ大将が指揮する第二極東方面軍は、北から松花江沿いにハルピンを目指し、黒河方面から侵攻した赤旗第二軍は小興安嶺を越えてチチハル攻略を目指していました。
 
 西からのザバイカル方面軍はマリノフスキー元帥が指揮し、大興安嶺の山岳地帯を踏破して満洲中部の平原地帯を目標にしていました。

 折しも東部国境防衛を担当していた関東軍第一方面軍第五軍司令部(清水規矩中将)は、麾下の国境守備の3個師団の師団長、参謀長、主務参謀、主要な軍直轄部隊長を120㎞後方の掖河(えきが:軍司令部所在地)に集合させて、ソ連侵攻を想定した高等司令部演習を行っている最中の出来事でした。
 また、東京では、天皇を中心とした最高戦争指導会議が行われ、戦争継続かポツダム宣言受諾かの議論が続いていました。最高戦争指導会議には、参謀総長梅津美治郎大将が出席しており、起案した作戦命令の上奏・裁可を行う主務者が不在でした。

 午後1時、梅津総長が宮城より帰庁するや否や、作戦命令上奏のため天皇に拝謁を申請し、ようやく大本営は天皇の勅裁を得て、9日午後5時、大陸命(大本営陸軍部命令)第千三百七十四號を発令し、全軍に下達しました。

 一 ソ聯ハ対日宣戦ヲ布告シ九日零時以降日ソ及満ソ國境方面諸所ニ於テ戰闘行動ヲ開始セルモ未タ其規模大ナラス
 二 大本營ハ國境方面所在ノ兵力ヲ以テ敵ノ進攻ヲ破摧シツツ全面的対ソ作戰ノ發動ヲ準備セントス
 三 第十七方面軍(朝鮮軍)ハ関東軍ノ戰闘序列ニ入ルヘシ
    隷属転移ノ時期ハ八月十日六時トス
 四 関東軍総司令官ハ差当リ國境方面所在ノ兵力ヲ以テ敵ノ進攻ヲ破摧シツツ速ニ全面的対ソ作戰ノ發動ヲ準備ス


 ここに、昭和20年(1945)8月10日午前6時をもって、第17方面軍(朝鮮軍)が関東軍の戦闘序列に組み込まれたことが判りました。
 ヤルタ会談は1945年2月4日から2月11日にかけて行われていますから、38度線による連合軍の朝鮮半島分割占領計画は、日本軍の管轄範囲に関係なく、便宜的なものだったのでしょうね。

 『ソ連が満洲に侵攻した夏』の著者半藤一利氏は、この命令が攻撃命令ではなく、準備命令だったことを指摘し、当時の朝枝繁春中佐(参謀本部作戦課の対ソ作戦担当参謀)に問いただした内容を記述しています。

 「ソ連軍が満洲に侵攻してくれば、とうてい長くはもちこたえられない。泣く子もだまる関東軍は、案山子(かかし)の軍隊になりはてていたからです。負けることは目にみえている。どうせ負けるなら、むしろあとのことを考えておいたほうがいい、・・・
・・・・つまりあとの外交交渉にふくみをもたせるためには、関東軍があまりに気負いたって頑張って戦って、のっぴきならない状況をつくってしまってはまずい。・・・」


 もはや、何をか語らんやです。

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Posted by 嘉穂のフーケモン at 22:40│Comments(0)歴史/北東アジア
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