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2007年12月31日

陶磁器(8)-青花龍文扁壺(明/永楽窯)

 陶磁器(8)-青花龍文扁壺(明/永楽窯)

 A Ming Dynasty blue-and-white porcelain dish with depiction of a dragon from Wikipedia.
 明代 青花龍文盤

 (旧暦 11月22日)

 寅彦忌 物理学者、随筆家、俳人寺田寅彦の昭和10年(1935)年の忌日。
       好きなもの イチゴ 珈琲 花美人 懐手(ふところで)して宇宙見物

 一碧楼忌 五七五調に囚われない自由な俳句を作り出し、俳誌『海紅(かいこう)』を主宰した俳人中塚一碧楼の昭和21年(1946)年の忌日。
       胴長の 犬がさみしき 菜の花が咲けり

 中国の宋代(960~1279)に発達した磁器の技術は、元代(1279~1368)の後期に「青花」および「釉裏紅」といった彩色された文様の出現により、いっそう進化しました。
 「青花」は、白磁の素地にコバルト系の顔料で文様を描いた後、半透明の白い釉薬をかけて焼成した技術様式です。白地に鮮やかな青の発色をもった文様は、中国陶磁器の代名詞ともなっています。
 また、「釉裏紅」は同じように、白磁の素地に銅系の顔料で文様を描いた後、半透明の白い釉薬をかけて焼成した技術様式で、白地に赤の発色が美しくあらわれます。

 元代の「青花」は民間の窯で焼かれていましたが、中国の雲南、浙江、江西などで産出したコバルト系の顔料は鉄やマンガンなどの不純物が多いために全体的に黒ずんでしまい、青が薄く、発色も鮮やかではありませんでした。

 その後、明を建国した洪武帝朱元璋(1328~1398、在位:1368~1398年)は、洪武2年(1369)に「朝廷で使う祭器はすべて磁器を用いる」旨の詔勅を発しました。
 そしてその設置年代については諸説ありますが、考古学発掘調査によれば永楽年間(1403~1424)に江西省景徳鎮の珠山に官窯(御器廠)が設置され、その後中国の陶磁器生産がほぼ景徳鎮窯に集約されることになります。

 この官窯で焼かれた瓷器は、代々の皇帝の治世の年号をとった年号款が入るようになりますが、その特徴は「永樂款少、宣德款多、成化款肥、弘治款秀、正德款恭、嘉靖款雜」とも評され、また特に永樂款については、篆書の「永楽年製」4文字のみで、楷書および「大明永楽年製」という六文字年款は無いそうです。
 くれぐれも、お間違いなきように。
 明の第3代皇帝永楽帝(在位:1402~1424)は、自らが軍を率いて西は5回にわたってゴビ砂漠を越えてモンゴル族を討ち、北は中国東北部(旧満洲)、南は安南(ベトナム北部)まで領土を広げた英傑でしたが、また、宦官の太監鄭和(ていわ、1371~1434)に命じて南海への七度の大航海の指揮を委ね、東南アジア、ペルシャ、遠くはアフリカ大陸東岸ケニアのマリンディ(Malindi)にまで到達したと云います。

 余談ですが、その第1次の航海では、宝船(ほうせん)と呼ばれる長さ44丈(約151.8m)、幅18丈(約61.6m)という巨艦62隻の船団を組み、総乗組員は2万7,800名余りに登ったと「明史」に記録されています。
 さすが大中国、やるこたあでかいね!

 永樂三年六月、和(鄭和)及び其の儕(さい、同輩)王景弘等に命じて西洋に通(あまね)く使いせしむ。將士卒は二萬七千八百餘人、金幣(金貨)を多く齎(もたら)して、大舶(たいはく、おおぶね)を造る、修(脩、長さ)四十四丈(約151.8m)、廣(さしわたし)十八丈(約61.6m)者(は)六十二。蘇州、劉家河より海に泛(うか)べ福建に至る、復た福建、五虎門より帆を揚げ、首(はじめ)に占城(チャンパ、ベトナム中部沿岸)に達し、以て次に諸番國(異国)を歷(めぐ)る。天子(永楽帝)詔(みことのり)を宣(のたま)ふに因りて其の君長(君主)に給賜し、服さずば則ち武を以て之を懾(したが)ふ。
 『明史 列傳 卷三百四  列傳第一百九十二 宦官一 鄭和』

 さて、話は戻りますが、この鄭和の海外遠征によって、東南アジアから良質のコバルトが手にはいるようになり、鮮明な青の発色に成功したと云います。しかし、その後東南アジアのコバルトが枯渇し、やがてペルシャ方面からシルクロードなどを経て、より良質なコバルトが輸入されるようになり鮮やかな発色を取り戻しました。
 このコバルトは、回教(イスラム教)の回から「回青」と呼ばれるようになりました。

 官窯を設立した目的は、朝貢の返礼品とする目的もあったようです。
 特に「青花」を好んだ安南(ベトナム北部)、暹羅(シャム)、真臘(しんろう:カンボジア)の諸王に対しては、それぞれ19,000個の瓷器を与えたと云われています。
 また、西域の良質な馬を手に入れるためにも使われ、オスマン帝国(1299~1922)時代のスルターン(君主)が収集した「青花」のコレクションが、イスタンブルのトプカプ宮殿(Topkapı Sarayı)などには大量に残っています。

 さらに、Chinaが陶磁器の代名詞として世界に定着したのも、明代に官窯で製作された良質の「青花」が組織的に出回るようになったためだと云われています。

 青花龍文扁壺(明/永楽窯)は、台北の國立故宮博物院に所蔵展示されていますが、現物の写真は掲載できません。悪しからず。
 参考 青花龍波濤文扁壺 明 永楽年製 大阪市立東洋陶磁美術館所蔵
 http://abc0120.net/words01/abc2009032046.html

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Posted by 嘉穂のフーケモン at 22:55│Comments(0)陶磁器
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