さぽろぐ

文化・芸能・学術  |札幌市中央区

ログインヘルプ


2012年01月04日

陶磁器(13)−粉彩(景徳鎮官窯)

 陶磁器(13)−粉彩(景徳鎮官窯)
 
 黄釉粉彩八卦如意転心套瓶 (清 乾隆窯)
 高さ19.5cm、口径6.1cm、足径6.8cm

 (旧暦12月11日)

 明けましておめでとうごわす。今年もヨロピクでごわす。
 
 さて、この「転心套瓶」は、外側の瓶と内側の瓶の二重になっているのが特徴で、外側の瓶の腹部に透かし彫りされた八卦の隙間(鏤空)から、内部の筒の模様を見ることができます。

 外側の瓶は首と本体が如意雲紋で上下二つに分けられており、外側の瓶の首を回すと内側の瓶も回転するようになっています。分かれているようで互いに繋がりがあって、そこには「交泰瓶」の精神があり、天下の往来や国民の安泰を願う象徴的な意味が込められていると解説されています。

 この瓶は、内側の瓶、外側の瓶の上部、外側の瓶の下部の三つに分けて焼成されています。あらかじめ絵付けして焼いた上で、内側の瓶と外側の瓶の上部を接着し、それを外側の瓶の下部にはめ込んで、陶土を巻いて抜き取れないようにして素焼きし、再度釉薬を塗って低温で焼いて仕上げているそうです。

 解説すると簡単なようですが、三つに分けた部品が焼成の途中で変形すると組み立て不能となるし、三回焼成しても釉薬の発色を一定に保つための周到な温度管理が必要であり、「鬼斧神工」(神業さながら、入神の技の冴え)と云われるだけの高度な技術を要する名品です。

 中国の歴代王朝にあっては、陶磁器の色彩は権威の象徴でもありました。清朝の後宮の女性達が用いる陶磁の色は、下記のように決められていました。

 1. 皇后(一人)       黄色  
 2. 皇貴妃(一人)      白地に黄色
 3. 貴妃(二人)と妃(四人) 黄色地に緑の龍
 4. 嬪(六人)        藍地に黄色の龍
 5. 貴人(無定数)      緑地に紫の龍
 6. 常在(無定数)      緑地に赤い龍


 従って、『黄釉粉彩八卦如意転心套瓶』は皇后のものに相当するようです。

 中華人民共和国成立以前の中国の歴史において、清代は最も文化の高揚した時期であり、とりわけ前半期の清朝第4代康煕帝(在位1662〜1722)、第5代雍正帝(在位1722〜1735)、第6代乾隆帝(在位1735〜1796)の三代が繁栄期であったと云われています。

 この時期に清朝は、科学の分野で発展をみせていたヨーロッパ文化を積極的に取り入れ、漢文化と融合させた高度な文化を築きました。
 陶磁器の歴史においても、ヨーロッパの七宝(銅胎七宝)の顔料を用いた「粉彩」や各種の色釉などは清代を代表する技法でもあり、中国陶磁技術の頂点を示すものと評価されています。

 明代から発展、繁栄してきた景徳鎮は、清初の動乱で戦渦に巻き込まれて衰退しましたが、康煕19年(1680)9月、御器焼造の命が下され、内務府総官の広儲司郎中・徐廷弼、内務府主事の李廷禧、工部虞衡司郎中・臧応選、筆帖式・車爾徳の4人が景徳鎮に派遣されることになりました。清朝は徐廷弼を事務の総監として、臧応選を現業の総監として景徳鎮官窯の再建に当たらせようとしました。
 翌、康煕20年(1681)2月、彼らは景徳鎮に着任して督造を開始しています。

 1. 臧窯  康煕20年(1681)〜康煕27年(1688)
 特に工部虞衡司郎中、臧応選は、荒廃した景徳鎮官窯の復興整備と人材育成、焼成技術の向上に努め、清代官窯の基礎を築いたと云われています。
 臧応選が景徳鎮で督理製造に携わっていた康煕20年(1681)から康煕27年(1688)までの官窯を「臧窯」と呼び、青花五彩技術がさらに成熟をふかめ、「茶葉末」などの単色釉の作品に優れていました。

 陶磁器(13)−粉彩(景徳鎮官窯)

 五彩雉雞牡丹紋瓶 清 康熙 高45cm、口徑12.3cm、足徑14cm

 2. 郎窯  康煕44年(1705)〜康煕51年(1712)
 康煕44年(1705)からは江西巡撫を兼ねた漢軍鑲黃旗人出身の郎廷極(1663〜1715)が景徳鎮御器廠督陶官を命ぜられました。
 郎廷極は康煕51年(1712)に転任するまでの8年間、各種の陶磁を監督して製作せしめましたが、特に深い色調の銅紅色釉が著名となり、後年、この銅呈色の単色釉磁を「郎窯」と呼ぶようになりました。

 陶磁器(13)−粉彩(景徳鎮官窯)

 郎窯紅釉琵琶尊 清 康熙 高36.6cm、口徑12.6cm、足徑13.6cm

 3. 年窯 雍正4年(1726)〜乾隆元年(1736)
 雍正年間(1723〜1735)に景徳鎮御器廠督陶官を命ぜられたのは漢軍鑲黃旗人出身の内務府総管、年希堯(?〜1738)でした。1726年から1736年の間の景徳鎮官窯の陶磁には「年窯」という名称が与えられ、粉彩技法と単色釉技法の精練を図り、南宋官窯の模倣とみられる秞面に貫入がはいる青磁に優れたものを残しています。

 陶磁器(13)−粉彩(景徳鎮官窯)

 粉彩桃花紋直頸瓶 清 雍正 高37.6cm、口徑4.1cm、足徑11.6cm

 4. 唐窯 乾隆元年(1736)〜乾隆21年(1756)
 年希堯は江蘇省淮安の板閘関督理(税務管理)も兼務していたため、景徳鎮にあって実務を担当していたのは漢軍正白旗人出身の内務府員外郎、唐英(1682〜1756)でした。
 唐英は雍正6年(1728)に景徳鎮御器廠督陶官に任ぜられ、乾隆21年(1756)に退任するまでの28年間に、宋代、明代等の昔日の官窯の模倣作の製造や57種類にものぼる新しい釉薬、粉彩をはじめとする各種技法の開発を行うほか、《陶冶圖說》、《陶成紀事》、《瓷務事宜示諭稿》などの陶務に関する記述など、多くの功績を残しています。

 陶磁器(13)−粉彩(景徳鎮官窯)

 青釉鏤空粉彩描金夔鳳紋套瓶 清 乾隆 高32.8cm、口徑7.2cm、足徑11cm
 
 彼は《瓷務事宜示諭稿序》の中で、「陶器の製造に関する経験も無く、知識も持ち合わせていなかったが、門を閉ざし交遊を絶ち、精神を集中して苦心し、力を尽くして工匠と食をともにすること3年、雍正9年(1731)に至って物料、火加減等すべてを知るとは言えないまでも、変化の生じる理由をおおよそは会得した」と記しています。
 予(よ)雍正六年(1728)、命を奉じて江右(江西)の督陶に出差(出張)す。陶固の細事、但だ生有る所未だ經見せざるなり。而も物料、火候(火加減)は五行丹貢と其の功を同じくす。之れ古(いにしへ)に摹(なら)ひ今を酌むを兼ね、侈(ほしいまま)に崇庳之式を弇(おほ)ふも、茫然として曉(さと)らず、日唯だ工匠之意を諾(うべな)ふは、惴惴(ずいずい;憂え恐れる)として、惟だ命を辱(はずかし)めて公(おほやけ)之是を誤るを懼(おそ)る。

 杜門(門を閉ざして外出しない)を用い、交遊を謝し、精を聚め神に會す。心を苦しめ力を竭(つ)くし工匠と其の食を同じくして息(や)むこと三年。九年辛亥に抵(いた)り、物料、火候に變化之理を克つ生かす。敢へて全てを知ると謂へずとも,頗(すこぶ)る變通之道を抽添するを得たる有り。之に向ひ唯だ工匠の意旨を諾(うべな)ふ者、今、其の意旨唯だ夫れ工匠に諾(うべな)ふを出ずべし。泥土に因り、釉料、坯胎、窯火の諸務、研究探討して往往にして心を得手に應ふる。賞勤、儆怠に至りては、老を矝(うやま)ひ、恤孤(孤児を憐れみ)と夫れ醫藥、棺槥(粗末で小さな棺桶)、拯災(災いを救う)、濟患(患いをすくう)之事、則ち又た皇仁の體を仰ぎ賑(にぎはひ)を寓(よ)せ貸于(たいう;食料を貸す)するは造作中之聖意、此の微末小臣の盡力は宣勞之職也。更に歷すこと五寒暑、器は苦窳(くゆ;いびつで脆い)ならず、人勞を憚(はばか)らず、雍正十三年(1735)までに、計數萬兩の帑金(国費)を費やし、圓琢等の器を制進すること、三四十萬件を下らず。其の間倖ひにも糜帑を免れ公(おほやけ)之咎(とがめ)を誤るは、上は聖明之寬恤に沐し,下は駑駘之心耳を矢す。

 茲に於て今上龍飛之乾隆元年(1736)、命を承はり榷淮(淮安の板閘関督理)陶務(景徳鎮御器廠督陶官)を告げ竣(お)はり、爰(ここ)に將(まさ)に歷年來の事宜(事情)を諸稿に示諭せんとす。外に散佚するを除き、其の存する者は匯繕(修繕をめぐらす)、成帙(書物をつくる)を檢(しら)べ、以て九載、辦理(取り扱い)之梗概(あらすじ)を志す。良工の心苦に緣(よ)り、慘澹たる經營、並びに未だ一人の責を撲(つく)さず、一事の誤りを胎み、卒之陶務以て成る者有るを得るは、實に偶然に非ず。後之董(とう;正すこと)是れ役する者を使ひ、或は採擇する所有り、未だ必ずしも木頭竹屑之用を備はらず。吾之子孫に至りて、尤も宜く什襲(幾重にも包む)して之を藏す。惟ふに此の胼胝(piánzhī;たこ)九載之心を識らず、且つ異日(他日)奴耕婢織之問に堪備(準備)するも、未だ知る可からざる也。
《瓷務事宜示諭稿序》(嘉穂のフーケモン拙訳)




  予于雍正六年,奉差督陶江右。陶固細事,但為有生所未經見,而物料火候與五行丹貢同其功,兼之摹古酌今,侈弇崇庳之式,茫然不曉,日唯諾于工匠之意者,惴惴焉,惟辱命誤公之是懼。

 用杜門,謝交遊,聚精會神,苦心竭力與工匠同其食息者三年。抵九年辛亥,于物料火候生克變化之理,雖不敢謂全知,頗有得于抽添變通之道。向之唯諾于工匠意旨者,今可出其意旨唯諾夫工匠矣。因于泥土、釉料、坯胎、窯火諸務,研究探討,往往得心應手。至於賞勤儆怠,矝老恤孤與夫醫藥棺槥拯災濟患之事,則又仰體皇仁寓賑貸于造作中之聖意,此微末小臣盡力宣勞之職也。更歷五寒暑,器不苦窳,人不憚勞。迄雍正十三年,計費帑金數萬兩,制進圓琢等器,不下三四十萬件。其間倖免糜帑誤公之咎者,上沐聖明之寬恤,下矢駑駘之心耳。

 茲於今上龍飛之乾隆元年,承命榷淮陶務告竣,爰將歷年來事宜示諭諸稿,除散佚外,檢其存者匯繕成帙,以志九載辦理之梗概。緣以良工心苦,慘澹經營,並未撲責一人、貽誤一事,卒之陶務得以有成者,實非偶然。使後之董是役者,或有所採擇,未必不備木頭竹屑之用。至於吾之子孫,尤宜什襲藏之,不惟識此胼胝九載之心,且堪備異日奴耕婢織之問,未可知也。
《瓷務事宜示諭稿序》


 乾隆期の景徳鎮における倣古(古きに倣う)の対象は、宋代の官窯、哥窯、汝窯、定窯、鈞窯といった五大名窯や龍泉窯、影青(yǐngqīng; 淡青色を呈する白磁の一種。宋代から元代にかけて中国江西省、福建省、広東省一帯で多く焼かれているが、宋代景徳鎮窯の作品が特にすぐれる。)などの釉色にはじまり、明代の宣徳、成化、嘉靖、万暦などの各期各類の磁器に及んでいます。

 さて、第4代康煕帝(在位1662〜1722)は、ヨーロッパからもたらされた七宝に強い関心を持ち、その技法を中国の磁器に適用したいと強く熱望したと伝えられています。そしてその在位の後期に七宝の顔料をヨーロッパから取り寄せ、また一部は自家製の顔料を得て、絵付け・焼造を行っています。

 これが世に「粉彩」と呼ばれる技法の作品で、五彩(宋代を起源とし、元代に完成した上絵付けの方法およびその陶磁器。白磁または白釉陶に赤・青・黄・緑・紫などの釉で絵や文様を表したもの)と同様な上絵付けの方法ですが、五彩の顔料が中国古来の低火度鉛釉であるのに対し、「粉彩」の顔料はヨーロッパから輸入した七宝の顔料です。また、五彩は焼成を経てはじめて色が現れますが、「粉彩」の顔料は色ガラスの粉末を顔料とするために、絵付けの段階で色が確認できます。

 さらに、「粉彩」では不透明な白色顔料が有って白磁の地色とは別に白色をあらわすことができ、白色顔料の上に別の顔料を重ね塗りして、柔らかな色調が出せる工夫もしています。
 《中国陶磁史の集大成—清の景徳鎮官窯》  中村富士雄 たましん歴史・美術館副館長

 陶磁器(13)−粉彩(景徳鎮官窯)

 粉彩折枝花卉紋燈籠瓶 清 乾隆 高24.6cm、口徑8.2cm、足徑8.2cm

「粉彩」は第5代雍正帝(在位1722〜1735)の時代に完成し、あらゆる色彩を濃淡をもって表現できる多彩な釉薬として清朝以後の陶磁器の多様化に大きく貢献しています。
 粉彩の特徴をまとめると、以下のようになります。

 1. 砒素を含む「玻璃白」と呼ばれる白色顔料を彩絵の下地に塗り、その上に各色の彩料をほどこしている。
 2. 粉彩に使用している彩料のうち、金を呈色剤とする臙脂紅(えんじこう)や羌水紅(きょうすいこう)、洋緑、洋黄、洋白などは国外から技術を導入した。
 3. 粉彩彩料の一部は、彩色する際に五彩のように彩料を水や膠(にかわ)で調合するのではなく、芸香油を用いて調合している。
 4. 粉彩の焼成温度は五彩よりも低い約700℃前後で、軟らかな感じに焼成されているため軟彩とも呼ばれている。
 5. 粉彩に用いられている主要彩料はすべて、製法など中国国外からの技術導入により完成された。
  恵泉女学園大学教授 長谷部楽爾 「清朝官窯の古様と新様」
 



あなたにおススメの記事

同じカテゴリー(陶磁器)の記事画像
陶磁器(14)−琺瑯彩(景徳鎮官窯)
陶磁器(12)−郎窯紅(景徳鎮官窯)
陶磁器(11)-青瓷盤口鳳耳瓶(南宋/龍泉窯)
陶磁器(10)-五彩天馬蓋罐(明/嘉靖窯)
陶磁器(9)-成化の鬪彩
陶磁器(8)-青花龍文扁壺(明/永楽窯)
同じカテゴリー(陶磁器)の記事
 陶磁器(14)−琺瑯彩(景徳鎮官窯) (2012-01-30 18:41)
 陶磁器(12)−郎窯紅(景徳鎮官窯) (2010-08-29 16:49)
 陶磁器(11)-青瓷盤口鳳耳瓶(南宋/龍泉窯) (2009-08-12 13:10)
 陶磁器(10)-五彩天馬蓋罐(明/嘉靖窯) (2009-02-06 20:57)
 陶磁器(9)-成化の鬪彩 (2008-05-05 23:00)
 陶磁器(8)-青花龍文扁壺(明/永楽窯) (2007-12-31 22:55)
Posted by 嘉穂のフーケモン at 15:21│Comments(0)陶磁器
※このブログではブログの持ち主が承認した後、コメントが反映される設定です。
上の画像に書かれている文字を入力して下さい
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。
削除
陶磁器(13)−粉彩(景徳鎮官窯)
    コメント(0)