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2007年05月01日

史記列傅(5)-司馬穰苴(じょうしょ)列傳第四

 史記列傅(5)-司馬穰苴(じょうしょ)列傳第四

 明十三陵の首陵、長陵の稜恩殿(北京市昌平区長陵鎮)
 
 (旧暦  3月15日)

 軍に在りては君の令も受けざる所有り

 古への王者より司馬の法有り、穰苴(じょうしょ)能く之を申明(広げ明確にする)す。よって司馬穰苴列傳第四を作る。(太史公自序第七十)

 古代の王者の頃から司馬(軍事を司る職)の兵法というものはあった。穰苴(じょうしょ)はこれを十分に広げ明確にした。そこで、司馬穰苴(じょうしょ)の列傳第四を作る。(太史公自序第七十:司馬遷の序文)

 司馬穰苴(じょうしょ)は、春秋時代(770 BC~403 BC)に陳から斉に亡命し田氏の始祖となった田完の子孫でした。
 斉の景公(547 BC~490 BC在位)の時代に、晉が斉の領土である阿(山東省東阿県)、甄(けん、山東省鄄城県)を攻め、そのうえ燕が黄河の南岸に侵入してきて、斉の軍は大いに敗れました。

 景公が心配しきっているところに宰相の晏嬰(?~500 BC)が、田穰苴(司馬穰苴の本名)を推薦して言います。

 「穰苴は田氏の庶孽(しょげつ)なりと雖も、然れども其の人、文は能く眾(しゅう)を附け、武は能く敵を威(おど)す。願はくは君、之を試みよ」 と。

 「穰苴は田氏の庶流の出身で高貴な身分ではありませんが、其の人物は、文においては人々に慕われることができ、武においては敵を脅かすことができます。どうかこの人物を試みに用いていただきたい」 と。

 景公は共に兵事を語りその人物を喜んで、穰苴を将軍に抜擢して燕、晉の軍を防がせようとしました。
 しかし、穰苴は景公に自分の身分の低さ故の実権の軽さを訴え、景公の信任の厚い重臣を目付役に要請します。
 そこで景公は其の申し出を許し、寵臣の莊賈を軍に同行させることにしました。
 
 穰苴は将軍として出立すると、莊賈と約束して、「明日、正午に軍門で会う」ということにしました。
 翌日、穰苴は軍門で待っていましたが、莊賈は現れず、夕方になってやっと到着する有様でした。
 穰苴は莊賈を詰問します。

 「將は命を受くるの日には則ち其の家を忘れ、軍に臨み約束せば則ち其の親を忘れ、枹鼓(ふこ)を援(と)るに急には則ち其の身を忘る。今敵國深く侵し、邦内騷動し、士卒境に暴露す。君、寢ねて席に安んぜず、食(くら)ひて味(あぢはひ)を甘(うま)しとせず。百姓の命、皆君に懸る。何ぞ相送(あひおく)ると謂はんや」 と。
 
 そして軍の法官を呼んで尋ねます。

 「軍法に期して後(おく)れて至る者は云何(いかん)」 と。對(こた)へて曰く、「斬に當(あた)る」 と。

 莊賈は斬られることを怖れて、使者を景公のもとに走らせて助命を請いますが、穰苴はその間に莊賈を斬罪にして全軍への見せしめとします。

 しばらくして、景公の使者が赦免の節(割符)を持って軍中に馬車を走らせて駆け込んできます。

 穰苴曰く、「將、軍に在りては君の令も受けざる所有り」 と。軍正に問ひて曰く、「軍中に馳せず。今、使者馳するは云何(いかん)」 と。正曰く、「斬に當(あた)る」 と。使者大いに懼(おそ)る。穰苴曰く、「君之使ひは、之を殺すべからず」 と。


 そこで使者の従僕と、使者の車の左の添え木と、使者の馬のうちの左側の添え馬とを斬って、全軍への見せしめとしました。

 穰苴が莊賈を斬り、使者の従僕と馬を斬って全軍の士卒に威を示したのは権謀であると評されています。むしろ利用された莊賈が気の毒であるとの評もあります。

 司馬遷は最後の段で次のように記しています。

 世、既に司馬の兵法多し、故を以て論ぜず。穰苴の列傳を著す。

 世間に司馬(軍事を司る職)の兵法というものは多く流布しているから、これを論ずることはしないで、穰苴の列伝だけを著すことにした。

 敢えて直接の論評を降さないで、「著穰苴之列傳焉」と結んだ司馬遷の狙いは、大きな歴史の流れの中では、一長一短あるひとりの人物が、それなりに歴史のひとこまを担って過ぎていくのを傍観して描写する筆致というものがあるが、そのようなものであろうかと評されています。

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Posted by 嘉穂のフーケモン at 21:06│Comments(0)史記列傅
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