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2006年02月03日

北東アジア(25)−第一次上海事変(2)

 北東アジア(25)−第一次上海事変(2)
 
 加賀飛行隊、左から生田乃木次中尉、黒岩利雄三等飛行兵曹、武雄一等飛行兵。

 1932年2月22日、航空母艦「加賀」飛行隊の生田乃木次大尉は三式艦上戦闘機の小隊3機を率い、一三式艦上攻撃機小隊3機とともに出撃、蘇州上空においてアメリカ人義勇兵のロバート・ショート操縦するボーイング218と交戦してこれを撃墜。日本の陸海軍を通じて初の空中戦闘による撃墜を記録した。

 (旧暦  1月 6日)

 光悦忌  近衛信尹(1565〜1614)、松花堂昭乗(1584〜1639)とともに寛永の三筆の一人として称えられ、画家、刀剣の鑑定、陶芸、漆芸、出版、茶の湯などにも多彩な才能を発揮した本阿彌光悦の寛永14年(1637)年の忌日
 代表作
 • 楽焼片身替茶碗 銘「不二山」(国宝 サンリツ服部美術館蔵)
 • 舟橋蒔絵硯箱(国宝 東京国立博物館蔵)
 • 鶴下絵和歌巻(光悦書、宗達下絵)(重要文化財 京都国立博物館蔵)
 • 鹿蒔絵笛筒(重要文化財 大和文華館蔵)
 • 黒楽茶碗 銘「雨雲」(重要文化財 三井文庫別館蔵)

 北東アジア(24)−第一次上海事変(1)のつづき


 中央大学人文科学研究所偏『日中戦争』に納められている論文「上海事変と日本人居留民」−日本人居留民による中国人民衆虐殺の背景−のなかで、現日本大学大学院総合社会情報研究科高綱博文教授は、「1932年の1月から5月まで国際都市上海に激変をもたらした上海事変は、日中両軍の苛烈な戦闘と極めて錯綜した外交過程を通じて、近代東アジアにおける帝国主義戦争の一典型ともいうべき歴史的性格を備えたものであった」と論じています。

 第一次上海事変は、昭和6年(1931)9月18日の九・一八事変(満洲事変)を契機として激化した排日運動の一環として起こった日貨(日本から輸出された商品)ボイコット運動に端を発し、日本政府、出先外交当局、居留民の抗議、圧殺策動と中国政府の弁明あるいは反批判を生み出しつつ、1932年の1月9日付け中国国民党機関紙『民国日報』の「不敬」報道(1月8日、東京で朝鮮人李奉昌が天皇座乗の乗用車に手榴弾を投擲した事件)、1月18日の日本人僧侶殺傷事件、1月20日の三友実業社襲撃事件といった激しい抗日運動と日本人居留民との対立激化の形態をとって、1月29日の日中両軍による武力衝突へと発展し、3月3日に戦闘停止(停戦協定調印は5月5日)するまでに日本軍がはじめて激烈な市街戦を経験した戦争でした。
 1月18日の中国人暴徒による日本人僧侶殺傷事件は、満州国樹立工作から列強の目をそらすために関東軍高級参謀板垣征四郎大佐から指示を受けた上海駐在陸軍武官補佐官田中隆吉少佐の謀略工作との説もありますが、日本軍の違法性は、当時ジャーナリストとして中国に滞在していたエドガー・スノー(Edgar Snow、1905〜1972)が、その著作(“Far Eastern Front”『極東戦線』, 1934)で次のような点を指摘しています。

 1. 日本軍は、最後通牒の全条件を中国側が受け入れた後で戦闘行為を開始したことによって国際法を破った。
 2. 日本軍は、中国に対して戦闘行為を開始することによって、全ての国際協定を破った。
 3. 日本軍は、非戦闘員に対する事前警告なしに人口密集市街地を無差別爆撃することによって、国際慣行を破った。
 4. 日本軍は、租界地域を中国軍攻撃の基地にすることで、伝統的な租界中立の原則を破った。

 1月29日午前6時15分、水上機母艦「能登呂」の水上偵察機2機が中国側後方の上海市街北部閘北(ざほく)の『湖州会館』『商務印書館』を爆撃し、戦闘が一段落した後も、「能登呂」の水上偵察機6機が第十次までの空襲を続けています。
 また、2月にはいると、上海に派遣された第一航空艦隊の航空母艦『加賀』『鳳翔』の艦載機が地上軍の戦闘に策応して市街地の無差別爆撃を行っています。

 上海事変による中国側の損害は、中国政府の公表によると民間人犠牲者は判明しているだけで死者6,080人、負傷者2,000人、行方不明者14,000人、直接戦火ををあびて荒廃した閘北(ざほく)一帯の日本軍占領地区の全工場の半数は破壊され、砲爆撃されたり占領された学校数は大学、専門学校10、中学校31、小学校192にものぼり、避難民は120万人と云われ、戦闘区域以外の租界や南市方面に移動して市中に充満した光景は凄惨を極めたと、作家村松梢風(1889〜1961)はその著「上海事変を観てくる」(『中央公論』1932年4月号)で書いているほどでした。

 さらにつづく

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Posted by 嘉穂のフーケモン at 22:58│Comments(0)歴史/北東アジア
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