2010年05月05日
天文(13)−妖霊星(ようれぼし)
Mars in 2001 as seen by the Hubble Space Telescope
(旧暦 3月22日)
第96代後醍醐天皇(1288〜1339)が倒幕運動を開始した「正中の変」(1331)から、足利義満(1358 〜1408)の第3代将軍職就任の(北朝)貞冶6年/(南朝)正平22年(1367)までの36年間の戦乱を描いた日本の代表的な軍記物語に『太平記』があります。
『平家物語』が仏教の無常観を中心に戦いの中にも風雅に富んだ世界を描いているのに対し、『太平記』は因果応報の思想を基に秩序と理念なき戦いの顛末を殺伐とした筆致で、時には残酷なまでに描いていると云われています。
その太平記巻五の四、『相摸入道田楽を弄(もてあそぶ)並びに闘犬の事』の記述中に、「妖霊星(ようれいぼし)」という妖星が現れて鎌倉幕府の支配者である北条氏の滅亡を予兆するかのように描かれている箇所があります。
時の権力者は北条高時(在職:1316〜1326)で、14歳で第14代執権職となりましたが、正中3年(1326)には病のために24歳で執権職を辞して出家し、崇鑑と号しています。
『太平記』や『増鏡』、『保暦間記』、『鎌倉九代記』などの後世に成立した記録では、闘犬や田楽に興じた暴君、暗君として書かれていますが、実際は病弱な人物であったようです。
相摸入道田楽を弄(もてあそぶ)並びに闘犬の事
又其比(そのころ)洛中に田楽を弄(もてあそぶ)事昌(さかん)にして、貴賎挙(こぞつ)て是に着(ぢやく)せり。相摸入道此事を聞及び、新座・本座の田楽を呼下して、日夜朝暮に弄(もてあそぶ)事無他事。入興(じゆきよう)の余に、宗(むね)との大名達に田楽法師を一人づゝ預て装束を飾らせける間、是は誰がし殿の田楽、彼(かれは)何がし殿の田楽なんど云て、金銀珠玉を逞(たくましく)し綾羅錦繍(りようらきんしう)を妝(かざ)れり。宴に臨で一曲を奏すれば、相摸入道を始(はじめ)として一族の大名我劣らじと直垂(ひたたれ)・大口(おほくち)を解(ぬい)で抛出(なげいだ)す。是を集(あつめ)て積(つむ)に山の如し。其弊(そのつひ)へ幾千万と云数を不知。
或夜一献の有けるに、相摸入道数盃(すはい)を傾け、酔に和して立て舞事良(やや)久し。若輩の興を勧る舞にてもなし。又狂者の言(ことば)を巧にする戯(たはむれ)にも非ず。四十有余の古入道、酔狂の余に舞ふ舞なれば、風情可有共(とも)覚ざりける処に、何(いづ)くより来(きたる)とも知ぬ、新坐・本座の田楽共十余人、忽然として坐席に列(つらなつ)てぞ舞歌(まひうた)ひける。其興(きよう)甚(はなはだ)尋常(よのつね)に越(こえ)たり。暫有(しばらくあつ)て拍子を替て歌ふ声を聞けば、「天王寺のやようれぼしを見ばや。」とぞ拍子(はやし)ける。
或官女此声を聞て、余(あまり)の面白さに障子の隙(ひま)より是を見るに、新坐・本座の田楽共と見へつる者一人も人にては無(なか)りけり。或(あるひは)觜(くちばし)勾(かがまつ)て鵄(とび)の如くなるもあり、或(あるひ)は身に翅(つばさ)在(あつ)て其形山伏の如くなるもあり。異類異形の媚者(ばけもの)共が姿を人に変じたるにてぞ有ける。
官女是を見て余りに不思議に覚ければ、人を走らかして城入道にぞ告たりける。入道取物も取敢ず、太刀を執て其酒宴の席に臨む。中門を荒らかに歩ける跫(あしおと)を聞て、化物は掻消様(かきけすやう)に失せ、相摸入道は前後も不知酔伏(ゑひふし)たり。燈(とぼしび)を挑(かかげ)させて遊宴の座席を見るに、誠に天狗の集りけるよと覚て、踏汚(ふみけが)したる畳の上に禽獣の足迹多し。城入道、暫く虚空を睨で立たれ共、敢て眼(まなこ)に遮(さへぎ)る者もなし。良(やや)久して、相摸入道驚覚(おどろきさめ)て起たれ共、惘然(ばうぜん)として更に所知なし。
後日に南家の儒者刑部少輔(ぎやうぶのせう)仲範(なかのり)、此事を伝聞(つたへきい)て、「天下将(まさに)乱(れんとする)時、妖霊星(えうれいぼし)と云悪星(あくしやう)下て災(わざはひ)を成すといへり。而も天王寺は是仏法最初の霊地にて、聖徳太子自(みづから)日本一州の未来記を留(とどめ)給へり。されば彼媚者(かのばけもの)が天王寺の妖霊星と歌ひけるこそ怪しけれ。如何様(いかさま)天王寺辺より天下の動乱出来(いでき)て、国家敗亡しぬと覚ゆ。哀(あはれ)国主徳を治め、武家仁を施して消妖謀(はかりごと)を被致よかし。」と云けるが、果して思知(おもひしら)るゝ世に成にけり。
相模入道(北条高時)が開いた酒宴に紛れ込んだ新座・本座の田楽衆が、実は觜(くちばし)が曲がった鵄(とび)の様な顔をしていたり、背中に翅(つばさ)があってその姿が山伏のようであったりと、全く異類異形の媚者(ばけもの)共が姿を人に変じたものでありました。
彼らが口々に囃し立てるには、「天王寺のや、ようれぼしを見ばや。」との不吉な内容でした。
1324年7月26日午前零時 火星の大接近を鎌倉より望む
大阪市天王寺区にある聖徳太子(574〜622)建立七大寺(四天王寺、法隆寺、広隆寺、橘寺、中宮寺、法起寺、葛木寺)の一つとされている四天王寺は、日本最古の官寺(国家が経済的保障や監督を行う寺院)です。
後にこの出来事を伝え聞いた藤原南家の儒者、刑部少輔仲範が云うには、
「天下が乱れんとするときには、妖霊星(えうれいぼし)と云う悪星が下って災いを成すと云う。しかも天王寺(四天王寺)は国教としての仏教最初の官寺として建立された霊地で、聖徳太子が自ら著した日本一州の未来記である『日本國未來記』が留め置かれているところである。だから彼の媚者(ばけもの)どもが天王寺の妖霊星と歌ったことが、幕府の行く末を暗示しているようで不気味である。天王寺の辺より天下の動乱が出来して、国家が敗亡するかと思われる。・・・」
と。
果たして、相模入道高時は田楽や闘犬にうつつを抜かしていた為に世は乱れ、正慶2年(1333)5月、新田義貞に攻められた高時はじめ北条一族と家臣は東勝寺に籠もって防戦しましたが支えきれず、自ら火を放って一族は自刃し、北条氏は滅亡しています。
妖霊星の予兆が本当になってしまったという話ですが、ではこの「妖霊星」とはいったい何だったのか、予てより様々な説があるようですが、天文現象に限って云えば、以下のようになるようです。
彗星の可能性 野尻抱影(1885〜1977、英文学者、随筆家、天文民俗学者)
野尻先生は、高時が出家して崇鑑と号した嘉禄元年(1326)から東勝寺で自刃した正慶元年(1333)の間の天文現象を、神田茂編(1935)『日本天文史料』で調べました。しかし、「妖霊星」の記述は見あたらず、これが「妖星」と同じだとすれば、『晋書 天文志』の記述から、「妖霊星」は彗星であろうと推測されました。
妖星
一(いつ)に彗星と曰ふ、所謂(いはゆる)掃星(ははきほし)なり。・・・
晉書/志/卷十二 志第二/天文中/雜星氣/妖星
そして、この間の彗星の記録として、『師守記 (もろもりき)』の記述をあげています。『師守記』は、南北朝時代の北朝の権少外記の役にあった公家中原師守(生没年未詳)の日記で、当時の政治、軍事、社会の情況が豊富に記されており、当代一級の史料であるとされています。
後醍醐
元徳二年三月十九日庚午(1330年4月7日)
彗星乾(いぬゐ:北西)二見(あら)ハル
『大日本史料』
元徳二年三月十九日(1330年4月7日)、今夜彗星戌亥ノ方(北西)二出現ス、
廿四日、今夜彗星出現ス。
〔師守記〕五 貞和元年(1345)七月七日ノ條
けれども、この彗星は日本のみの記録であり、この時期に対応する元の第12代皇帝文宗(在位1328〜1332)の至順元年(1330)や高麗の第27代忠粛王(在位1313〜1330、1332〜1339)十七年(1330)の記録にも対応する彗星の記事は見あたらないことから、解明をあきらめています。
熒惑(けいこく、火星)の可能性 斉藤国治(1913〜?、天文学者、元東京大学東京天文台教授)
血のように輝く熒惑(火星)は、洋の東西を問わず古来から戦いを連想させる星とされており、ローマ神話でも軍神Marsとして有名です。
熒惑(火星)ハ曰ク南方、夏(夏王朝)、火ニシテ、禮ナリ、視ナリ。禮ニ虧(か)ケ視ヲ失ヒ、夏ノ令ニ逆(そむ)キ、火氣ヲ(そこな)ハバ、罰(ばつ)熒惑ニ見(あら)ハル。
熒惑ハ法ニシテ行カシメバ無常ナリ、出ズレバ則チ兵有リ、入レバ則チ兵散ル。
舍(居所)ヲ以テ國ヲ命ジ、亂(動乱)ヲ為シ賊(盗賊)ヲ為ス、疾(疾病)ヲ為シ喪(喪事)ヲ為ス、饑(飢饉)ヲ為シ兵(兵乱)ヲ為シテ、居ル所國殃(わざはひ)ヲ受ク。
環繞(かんぜう、めぐる)して己(おのれ)ヲ鉤シ、芒角動搖シ、色ヲ變ジ、乍(たちまち)前二乍(たちまち)後ニ、乍(たちまち)左シ乍(たちまち)右ス、其ノ為殃(わざはひ)甚ダシク愈(まさ)ル。
其ノ南ハ丈夫、北ハ女子ヲ喪(うしな)フ。周旋止息シテ、乃チ死喪ヲ為ス。其ノ野ヲ寇亂シテ、地ヲ亡(ほろ)ボス。其ノ失行速クシテ、兵其ノ下ニ聚(あつ)マリ、之ニ順ズレバ戰ニ勝ツ。
晉書/志/卷十二 志第二/天文中/七曜
Apparent retrograde motion of Mars in 2003 as seen from Earth.
熒惑(けいこく、火星)、それは南方・夏王朝・火のしるしであり、礼にあたり、視にあたる。礼が欠け視力が失われ、夏王朝の政令に背き、火気をそこなうと、その罰は熒惑の動きに現れる。熒惑は法官であり、その運行は一定しない。それが出現すると戦乱があり、隠れると戦乱が治まる。
熒惑(けいこく、火星)はその位置によって国の運命を定める。動乱が起きたり盗賊が出現したり、疾病が蔓延したり弔い事があったり、飢饉が起きたり戦乱が起こったりして、熒惑(けいこく、火星)の留まる国は災禍を受ける。
環(ループ)を描いて運動したり、鉤型に運動したりして、光芒は揺れ動き、色を変じ、前に順行したらたちまち後ろに逆行し、左に動いたらたちまち右に動き、災禍ははなはだしく大きくなる。
軌道の南側にあると男子の死があり、北側にあると女子の死がある。円運動するか停止すると弔い事が起き、その地を侵略、略奪して国を滅ぼす。その運行が早くなると、兵がその下に集まり、その運行に沿って動けば戦いに勝利する。
晉書/志/卷十二 志第二/天文中/七曜
火星が地球に接近するのは、火星の衝(太陽、地球、火星がほぼ一直線上に並ぶ)の前後ですが、古天文学計算から最大光度の1324年7月26日(ユリウス暦)と鎌倉幕府滅亡の1333年2月6日(ユリウス暦)に火星の接近があり、いづれにしても天王寺の妖霊星は、熒惑(けいこく)つまり火星ではなかったのかと、斉藤国治先生はその著『古天文学の散歩道』に書いておられます。
彼らが口々に囃し立てるには、「天王寺のや、ようれぼしを見ばや。」との不吉な内容でした。
1324年7月26日午前零時 火星の大接近を鎌倉より望む
大阪市天王寺区にある聖徳太子(574〜622)建立七大寺(四天王寺、法隆寺、広隆寺、橘寺、中宮寺、法起寺、葛木寺)の一つとされている四天王寺は、日本最古の官寺(国家が経済的保障や監督を行う寺院)です。
後にこの出来事を伝え聞いた藤原南家の儒者、刑部少輔仲範が云うには、
「天下が乱れんとするときには、妖霊星(えうれいぼし)と云う悪星が下って災いを成すと云う。しかも天王寺(四天王寺)は国教としての仏教最初の官寺として建立された霊地で、聖徳太子が自ら著した日本一州の未来記である『日本國未來記』が留め置かれているところである。だから彼の媚者(ばけもの)どもが天王寺の妖霊星と歌ったことが、幕府の行く末を暗示しているようで不気味である。天王寺の辺より天下の動乱が出来して、国家が敗亡するかと思われる。・・・」
と。
果たして、相模入道高時は田楽や闘犬にうつつを抜かしていた為に世は乱れ、正慶2年(1333)5月、新田義貞に攻められた高時はじめ北条一族と家臣は東勝寺に籠もって防戦しましたが支えきれず、自ら火を放って一族は自刃し、北条氏は滅亡しています。
妖霊星の予兆が本当になってしまったという話ですが、ではこの「妖霊星」とはいったい何だったのか、予てより様々な説があるようですが、天文現象に限って云えば、以下のようになるようです。
彗星の可能性 野尻抱影(1885〜1977、英文学者、随筆家、天文民俗学者)
野尻先生は、高時が出家して崇鑑と号した嘉禄元年(1326)から東勝寺で自刃した正慶元年(1333)の間の天文現象を、神田茂編(1935)『日本天文史料』で調べました。しかし、「妖霊星」の記述は見あたらず、これが「妖星」と同じだとすれば、『晋書 天文志』の記述から、「妖霊星」は彗星であろうと推測されました。
妖星
一(いつ)に彗星と曰ふ、所謂(いはゆる)掃星(ははきほし)なり。・・・
晉書/志/卷十二 志第二/天文中/雜星氣/妖星
そして、この間の彗星の記録として、『師守記 (もろもりき)』の記述をあげています。『師守記』は、南北朝時代の北朝の権少外記の役にあった公家中原師守(生没年未詳)の日記で、当時の政治、軍事、社会の情況が豊富に記されており、当代一級の史料であるとされています。
後醍醐
元徳二年三月十九日庚午(1330年4月7日)
彗星乾(いぬゐ:北西)二見(あら)ハル
『大日本史料』
元徳二年三月十九日(1330年4月7日)、今夜彗星戌亥ノ方(北西)二出現ス、
廿四日、今夜彗星出現ス。
〔師守記〕五 貞和元年(1345)七月七日ノ條
けれども、この彗星は日本のみの記録であり、この時期に対応する元の第12代皇帝文宗(在位1328〜1332)の至順元年(1330)や高麗の第27代忠粛王(在位1313〜1330、1332〜1339)十七年(1330)の記録にも対応する彗星の記事は見あたらないことから、解明をあきらめています。
熒惑(けいこく、火星)の可能性 斉藤国治(1913〜?、天文学者、元東京大学東京天文台教授)
血のように輝く熒惑(火星)は、洋の東西を問わず古来から戦いを連想させる星とされており、ローマ神話でも軍神Marsとして有名です。
熒惑(火星)ハ曰ク南方、夏(夏王朝)、火ニシテ、禮ナリ、視ナリ。禮ニ虧(か)ケ視ヲ失ヒ、夏ノ令ニ逆(そむ)キ、火氣ヲ(そこな)ハバ、罰(ばつ)熒惑ニ見(あら)ハル。
熒惑ハ法ニシテ行カシメバ無常ナリ、出ズレバ則チ兵有リ、入レバ則チ兵散ル。
舍(居所)ヲ以テ國ヲ命ジ、亂(動乱)ヲ為シ賊(盗賊)ヲ為ス、疾(疾病)ヲ為シ喪(喪事)ヲ為ス、饑(飢饉)ヲ為シ兵(兵乱)ヲ為シテ、居ル所國殃(わざはひ)ヲ受ク。
環繞(かんぜう、めぐる)して己(おのれ)ヲ鉤シ、芒角動搖シ、色ヲ變ジ、乍(たちまち)前二乍(たちまち)後ニ、乍(たちまち)左シ乍(たちまち)右ス、其ノ為殃(わざはひ)甚ダシク愈(まさ)ル。
其ノ南ハ丈夫、北ハ女子ヲ喪(うしな)フ。周旋止息シテ、乃チ死喪ヲ為ス。其ノ野ヲ寇亂シテ、地ヲ亡(ほろ)ボス。其ノ失行速クシテ、兵其ノ下ニ聚(あつ)マリ、之ニ順ズレバ戰ニ勝ツ。
晉書/志/卷十二 志第二/天文中/七曜
Apparent retrograde motion of Mars in 2003 as seen from Earth.
熒惑(けいこく、火星)、それは南方・夏王朝・火のしるしであり、礼にあたり、視にあたる。礼が欠け視力が失われ、夏王朝の政令に背き、火気をそこなうと、その罰は熒惑の動きに現れる。熒惑は法官であり、その運行は一定しない。それが出現すると戦乱があり、隠れると戦乱が治まる。
熒惑(けいこく、火星)はその位置によって国の運命を定める。動乱が起きたり盗賊が出現したり、疾病が蔓延したり弔い事があったり、飢饉が起きたり戦乱が起こったりして、熒惑(けいこく、火星)の留まる国は災禍を受ける。
環(ループ)を描いて運動したり、鉤型に運動したりして、光芒は揺れ動き、色を変じ、前に順行したらたちまち後ろに逆行し、左に動いたらたちまち右に動き、災禍ははなはだしく大きくなる。
軌道の南側にあると男子の死があり、北側にあると女子の死がある。円運動するか停止すると弔い事が起き、その地を侵略、略奪して国を滅ぼす。その運行が早くなると、兵がその下に集まり、その運行に沿って動けば戦いに勝利する。
晉書/志/卷十二 志第二/天文中/七曜
火星が地球に接近するのは、火星の衝(太陽、地球、火星がほぼ一直線上に並ぶ)の前後ですが、古天文学計算から最大光度の1324年7月26日(ユリウス暦)と鎌倉幕府滅亡の1333年2月6日(ユリウス暦)に火星の接近があり、いづれにしても天王寺の妖霊星は、熒惑(けいこく)つまり火星ではなかったのかと、斉藤国治先生はその著『古天文学の散歩道』に書いておられます。
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