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2017年08月15日

奥の細道、いなかの小道(28)− 酒田

  奥の細道、いなかの小道(28)− 酒田

  山口素堂(1642〜1716)

  (旧暦6月24日)

  素堂忌
  江戸前期の俳人山口素堂(1642〜1716)の享保元年(1716)旧暦八月十五日の忌日。
  甲府魚町で家業の造り酒屋を営んでいたが、向学の志止みがたく、弟に家督を譲り、江戸に出て林羅山の三男、林春斎(1618〜1680)に漢学を学び、和 
  歌・書・能楽にも通じ、生涯を江戸でおくった。松尾芭蕉とは同門で、親交があり、蕉風の確立に寄与したといわれている。

    目には青葉山ほととぎす初鰹
    名もしらぬ小草花咲野菊哉
    うるしせぬ琴や作らぬ菊の友


  奥の細道、いなかの小道(28)− 酒田
 
  長山重行邸


    羽黒を立ちて、鶴が岡の城下、長山氏重行といふもののふの家にむかへられて、誹諧一巻あり。左吉もともにに送りぬ。川舟に乗りて酒田の湊に下る。
    淵庵不玉といふ医師のもとを宿とす。
      あつみ山や吹浦かけて夕すずみ 
      暑き日を海にいれたり最上川

    ○十日 曇。飯道寺正行坊入来、会ス。昼前、本坊ニ至テ、蕎切・茶・酒ナド出。未ノ上刻ニ及ブ。道迄、円入 被レ迎。又、大杉根迄被レ送。祓川ニシテ
     手水シテ下ル 。左吉ノ宅ヨリ翁計馬ニテ、光堂迄釣雪送ル。左吉同道。々小雨ス。ヌルヽニ不レ及。申ノ刻、鶴ケ岡長山五良右衛門宅ニ至ル。粥ヲ
     望、終テ眠休シテ、夜ニ入テ発句出テ一巡終ル。
      『曾良旅日記』


  旧暦六月十日(陽暦七月二十六日)、芭蕉翁一行の出立を知った近江飯道寺の僧、正行坊円入が南谷の別院に別れの挨拶に来ました。その後、芭蕉翁一行は昼前に本坊の若王寺寶前院に赴き、別当代会覚阿闍梨に辞去の挨拶をし、蕎麦切り、茶、酒などで歓待され、未ノ上刻(午後二時過ぎ)に羽黒山を出立しました。

  正行坊円入が見送りに来て、一の坂を下って大杉(爺杉)まで同道しました。芭蕉は祓川で手水をして幽邃閑寂なる羽黒山境内に別れを告げ、図司呂丸(近藤佐吉)宅からは馬に乗り、曾良と呂丸が付き添って鶴岡へ向かいました。また、羽黒山南谷玄陽院で思いがけず再会した観修坊釣雪が正善院黄金堂まで同道しました。
  黄金堂の前で釣雪に別れを告げた一行に呂丸が同道し、手向を旅立って羽黒街道を鶴岡目指して西進して行きました。

  野荒町−荒川−三ツ橋を経て、赤川の手前から北上し、三川橋の所で船に乗り、従四位下庄内藩主酒井忠真(第4代藩主)の城下町鶴岡に入りました。

  庄内藩14万石は領内に米どころ庄内平野を有し、且つ領内の酒田の湊は、寛文年間(1661〜1673)に政商河村瑞賢(1618〜1699)によって開かれた北前船の西廻り航路の基点として栄えたために財政的に裕福で、一説に実収入は30万石以上ともいわれていました。

  酒井家は松平氏、德川氏最古参の譜代筆頭で、元来、三河國碧海郡酒井郷あるいは同國幡豆郡坂井郷の在地領主であったと考えられています。

  庄内藩は、元和八年(1622)、出羽山形藩57万石藩主最上義俊(1605〜1632)が改易された後、越後高田藩主酒井家次(1564〜1618)の嫡男忠勝(1594〜1647)が、信州松代藩10万石から移封され、出羽田川、飽海郡内において13万8千石を領して立藩されています。

  一行は申ノ刻(午後四時過ぎ)に、荒町裏大昌寺の脇小路に住む長山五郎右衛門重行宅(鶴岡市山王町十三)に着きました。

  
    「重行、姓長山、仮名五郎左衛門。藩中歌人也。荒町裏東側の小路に住す。今に長山小路といふ。東都在勤の折、深川はせを庵に遊び玉ひしゆかりによ
    りて、翁奥羽行脚の節、此亭に留杖したまひ、初茄子の高吟に俳諧一巻あり。其後、東花坊奥羽行脚せられし頃、呂図司案内して御山をめぐり、夫より
    重行亭に旅寝し、初茄子の遺詠を感じ、橘の香をとゞめし俳諧一巻あり」
      『於保伊頭美』(天保十五)

 
  長山氏(生没年未詳)は、庄内藩士で大工改め役、百五十石取りと『庄内人名辞典』で紹介されています。

  芭蕉は長山宅に着いたときに、三山巡礼の疲れから、すぐに粥を所望して、食べた後に仮眠をとりました。
  夜になって、句筵興行が催され、芭蕉の

     めづらしや山をいで羽の初茄子

を発句に、重行・曾良・露丸と一巡四句を詠んだところで、芭蕉の体調をいたわって、この日の聯句は終了しました。
  この句は、長山重行宅の食膳に供されたこの地方名産の茄子の風味が心に残り、長山氏の厚遇に感謝の意を表した発句であるとされています。またこの茄子は、小ぶりな姿とほどよく締まった肉質が特徴の民田茄子といわれ、民田地域の八幡神社の社殿を作る際に京都の宮大工が種を持ち込んだと言われています。
 
    ○十一日 折々村雨ス。俳有。翁、持病不快故、昼程中絶ス。
  
    ○十二日 朝ノ間村雨ス。昼晴。俳、歌仙終ル。
    ○羽黒山南谷方(近藤左吉・観修坊、南谷方也)・且所院・南陽院・山伏源長坊・光明坊・息平井貞右衛門。○本坊芳賀兵左衛門・大河八十良・梨水・
     新宰相。
    △花蔵院△正隠院、両先達也。円入(近江飯道寺不動院ニテ可レ尋)、七ノ戸南部城下、法輪陀寺内淨教院珠妙。
    △鶴ケ岡、山本小兵へ殿、長山五郎右衛門縁者。図司藤四良、近藤左吉舎弟也。
     『曾良旅日記』

  翌十一日(陽暦七月二十七日)、この日も聯句を再開しましたが、芭蕉は持病(痔疾あるいは胃痙攣)が出て気分が勝れず、昼頃に中止しています。

  十二日(陽暦七月二十八日)、「めづらしや」四吟歌仙は三日がかりで満尾となりました。

    一 十三日 川船ニテ坂田ニ趣。船ノ上七里也。陸五里成ト。出船ノ砌、羽黒より飛脚、旅行ノ帳面被レ調、被レ遣。又、ゆかた二ツ被レ贈。亦、発句共
     も被レ為見。船中少シ雨降テ止。申ノ刻 より曇。暮ニ及テ、坂田ニ着。玄順亭へ音信、留主ニテ、明朝逢。

    ○十四日 寺島彦助亭へ 被レ招。俳有。夜ニ入帰ル。暑甚シ。
     『曾良旅日記』


  旧暦六月十三日(陽暦七月二十九日)、芭蕉翁一行は長山重行、図司呂丸らの見送りを受けて、長山宅のすぐ南にあった内川河岸(大泉橋左岸)から川船に乗って酒田湊へ向かいました。

  出船の際に羽黒山から飛脚が来て、会覚阿闍梨から新しい旅行の帳面と浴衣二枚、そして餞別の発句が届けられました。

   忘るなよ虹に蝉鳴山の雪  会覚

 羽黒山の別当代という地位のある人が、遊歴の一俳諧師に対してこれほどまでの心遣いをすることは並大抵のことではないとされています。

 川船に乗った一行は内川を北東に下り、まもなく赤川に合流しました。赤川を北に向かって下り、横山−押切−黒森を過ぎて、当時は飯森山の東で最上川に合流していました。川船では七里の道程でした。

  奥の細道、いなかの小道(28)− 酒田
  大正二年(1913)酒田地形図

 現在の赤川は、大正十年に最上川から分離するための放水路開削工事が開始され、昭和十七年まで継続されて、最終的には昭和二十八年に最上川と赤川が分離する締め切り工事が完成し、日本海に直接放流する赤川新川が完成しています。

 陸路は羽州浜街道を北上して、横山−押切−広野をへて最上川を渡り酒田に向かう五里の道のりでした。
  一行は、最上川を横切り、現在日和山公園となっている瑞賢蔵下の旅人用の桟橋から上陸したとされています。そこから後年「芭蕉坂」と名付けられた坂道を歩き、鶴岡街道とよばれる出町・六間小路を通って町へ出て、伊東玄順宅へ使いを出しましたが、不在のためその日の夜はどこかの旅人宿に泊まったとされています。

  さて、酒田は砂潟または坂田といわれ、『曾良旅日記』には坂田と記されています。この地の歴史は古く、奈良時代後半に朝廷が出羽の国府として築いたと考えられている城輪柵(きのわのさく)跡があります。

  文治五年(1189)九月、奥州藤原氏滅亡の際に、前に亡くなっていた第3代秀衡(1122?〜1187)の継室德尼公(泉の方)が、第4代泰衡(1155〜1189)の幼息萬壽を伴い、三十六人の家臣を従えて戦火に燃える平泉を逃れ、三十六騎の德尼公と称されました。
  一行は、秋田の久保田から南下して、羽黒山南麓の立谷澤地内、妹澤に隠れ住んだと云います。

  ところが源頼朝(1147〜1199)は、戦勝の報賽に家臣土肥實衡(?〜1191?)に命じて、羽黒山に黄金堂を建立させることになったため、頼朝の探索を恐れた德尼公らは、さらに最上川河口左岸の袖の浦(酒田市宮野浦)に逃れ、飯森山の麓に泉流庵を結んで藤原一門の冥福を祈り余生を送ったと云います。

  その後、家臣団三十六人は袖の浦(向酒田)に土着してそれぞれが廻船問屋を営み、また、町割をして自らを「長人(おとな)」と称し、町の年寄役として町政に携わって行きましたが、16世紀の初頭の大永年間(1521〜1528)に最上川の対岸に移り、砂質の荒蕪地を開拓整備して本町を中心とした街づくりにはげんで作ったのが酒田の街と云うことです。

  寛文年間(1661〜1673)に政商河村瑞賢(1618〜1699)によって開かれた北前船の西廻り航路の基点として酒田湊はますます栄えるようになり、その繁栄ぶりは「西の堺、東の酒田」ともいわれ、秋田の外港土崎湊と並び、羽州屈指の港町として発展しました。
  井原西鶴(1642?〜1693)の浮世草子『日本永代蔵』に登場する廻船問屋鐙屋や、昭和二十二年(1947)の農地改革まで日本一の地主だった本間家、加賀屋(仁木家)、西野家、後藤家、根上家、上林家などの廻船問屋や豪商たちが軒を連ね、町は三十六人衆という自治組織により運営されていました。

  奥の細道、いなかの小道(28)− 酒田

  『日本永代蔵』巻二(貞享五年) 舟人馬かた鐙屋の庭

    坂田の町に、鐙屋といへる大問屋住けるが、昔は纔なる人宿せしに、其身才覚にて、近年次第に家榮え、諸國の客を引
    請、北の國一番の米の買入れ、惣左衛門といふ名をしらざるはなし。表口卅間、裏行六十五間を、家藏に立つゞけ、臺所の有樣、目を覚しける。米、味
    噌出し入の役人。焼木の請取、肴奉行、料理人、椀家具の部屋を預け、菓子の捌き、莨菪の役、茶の間の役、湯殿役、又は使番の者も極め、商手代、内
    証手代、金銀の渡し役、入帳の付人、諸亊壱人に壱役づゝ渡して、物の自由を調へける。亭主、年中袴を着て、すこしも腰をめさず、内儀は、かるい衣
    装をして、居間をはなれず。
      『日本永代蔵』巻二(貞享五年) 舟人馬かた鐙屋の庭


  芭蕉が酒田に着いて使いを出した医師淵庵不玉は、本名を伊東玄順(1640〜1696)といい、淵庵は医号、不玉は俳名で、寛文十年(1670)京都に上り長井宗朔のもとで医術を学び、郷里に帰って町医の門戸を開いています。
  伊勢の俳人大淀三千風(1639~1707)の『日本行脚文集』巻一に、「酒田宗匠伊藤氏玄順」とあるように、この地方俳壇の中心として知られています。

  奥の細道、いなかの小道(28)− 酒田


  翌十四日(陽暦七月三十日)朝、芭蕉翁一行は再度伊東玄順宅を訪ねました。玄順は家を持たず、豪商で町年寄である加賀屋与助の名子(借家人)であったため、芭蕉らを家に泊めることはできても歓待ができなかったので、芭蕉翁一行の歓待役は豪商らに任せました。

  この日、一行は寺島彦助邸に招かれました。
  寺島彦助は俳号を詮道、雅号を安種亭令道といい、酒田湊の浦役人で、寛文十二年(1672)に河村瑞賢(1618〜1699)により西廻り航路が刷新・整備されたうえに、酒田湊に御米置場(瑞賢倉)が設置されたことから、酒田には特に二名の御城米浦役人が置かれることになり、寺島彦助は貞享年間(1684〜1688)の初め頃より糸屋太右衛門(惣七郎)とともに浦役人に就任し、膨大な量の幕府米置場の管理に当たっていたようです。

  芭蕉翁一行を招いた寺島彦助邸は本町五ノ丁にあり、同邸には伊東不玉を始め豪商加賀屋籐右衛門(任曉)、八幡源(右)衛門(扇風)、長崎一左衛門(定聯)らの聯衆が集まっていました。
  そのようななかで、彦助邸ではさっそく芭蕉の発句で、句筵興行が催されました。

  『俳諧書留』には、

      六月十五日、寺島彦助亭にて
     涼しさや海に入りたる最上川         翁
    月をゆりなす浪のうき見て       寺島詮道
    黑がもの飛行庵の窓明て          不玉
    麓は雨にならん雲きれ     長崎一左衛門定聯
    かばとぢの折敷作りて市を待        ソラ
    影に任する宵の油火     かゞや籐右衛門任曉
    不機嫌の心に重き恋衣      八幡源衛門扇風
      末略ス


の七句が収載されていますが、この句筵は満尾しなかったものと思われます。

  なお、曾良が残した『俳諧書留』では、この句筵を六月十五日と記していますが、六月十五日には象潟へ赴いており、十五日は十四日の誤りであると指摘されています。

  後に、芭蕉は『おくの細道』執筆時には、上五の「涼しさや」を「暑き日を」と改め、

    暑き日を海にいれたり最上川

との名句を完成させています。

  この日、夜になって句筵が終わり、芭蕉翁一行は玄順宅に戻りましたが、大変暑い日であったようです。

  現在の日和山公園(酒田市南新町一丁目)は、庄内砂丘の頂上部一帯で、当時、酒田湊に出入りする船頭が日和を眺めることから占晴臺と呼ばれた所です。

  奥の細道、いなかの小道(28)− 酒田

  芭蕉真蹟

  園内に芭蕉句碑があり、

      あふみや玉志亭にて納涼の佳興に瓜をもてなして発句をこふて曰
      句なきものは喰亊あたはじと戯れければ
    初真桑四にや斷ん輪に切ん     はせを
    初瓜やかふり廻しをおもい出つ    ソ良
    三人の中に翁や初真桑        不玉
    興にめでゝこゝろもとなし瓜の味   玉志


と刻まれており、これは象潟へ赴いた後、酒田再訪の旧暦六月二十三日(陽暦八月八日)、近江屋三郎兵衛(玉志)に招かれた際に即興の発句会を催したときの作で、芭蕉自ら懐紙に残したものであるとされ、現在、本間美術館に収蔵されています。

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