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2005年07月24日

伝説(1)−辨慶の引き摺り鐘

 伝説(1)−辨慶の引き摺り鐘

 三井寺 辨慶の引き摺り鐘

 (旧暦  6月19日)

 河童忌 芥川賞で有名な小説家芥川龍之介の昭和2年(1927)の忌日

 全国に義経伝説や辨慶伝説は数多在るのでしょうが、辨慶伝説について云えば、荒唐無稽な話しに思わず笑ってしまうほど、愛嬌があります。

 鎌倉幕府の正史である『吾妻鑑』の文治元年乙巳(1185)11月11日庚寅の項に、「義経等反逆の事、申請に任せ宣下せられをはんぬ。・・・・」と後白河法皇により義経追討の院宣が下されたことが記載されています。

 追われる身となった伊豫の守義経に付き従うのは、歌舞伎の『義経千本桜』で有名な亀井(六郎重清)・片岡(八郎為春)・伊勢(三郎義盛)・駿河(次郎清重)(義経の四天王)と常陸坊海尊、そして武蔵坊辨慶他総勢10数名。
 特に武蔵坊辨慶については、『三国志』の関羽や張飛のような大豪傑のイメージが広がり、実在の人物かどうかさえ疑われるような伝説的な人物になっていますが、『吾妻鑑』の文治元年乙巳(1185)にその名前が記載されているところから、実在した人物のようです。

 11月3日 壬午
 前の備前の守行家(桜威の甲)・伊豫の守義経(赤地錦の直垂・萌葱威の甲)等西海に赴く。先ず使者を仙洞に進し、申して云く、鎌倉の譴責を遁れんが為、鎮西に零落す。最期に参拝すべきと雖も、行粧異躰の間、すでに以て首途すと。前の中将時實・侍従良成(義経同母弟、一條大蔵卿長成男)・伊豆右衛門の尉有綱・堀の彌太郎景光・佐藤四郎兵衛の尉忠信・伊勢の三郎能盛・片岡の八郎弘綱・辨慶法師已下相従う。彼此の勢三百騎かと。

 11月6日 乙酉
 行家・義経、大物浜に於いて乗船するの刻、疾風俄に起こって逆浪船を覆すの間、慮外に渡海の儀を止む。伴類分散し、豫州に相従うの輩纔に四人。所謂伊豆右衛門の尉・堀の彌太郎・武蔵房辨慶並びに妾女(字静)一人なり。今夜天王寺の辺に一宿し、この所より逐電すと。今日、件の両人を尋ね進すべきの旨、院宣を諸国に下さると。

 さて、『辨慶の引き摺り鐘』のことですが、三井寺(園城寺)の金堂(国宝)の横を通って少し登ると小さなお堂があり、『辨慶の引き摺り鐘』が安置されています。案内のパンフレットには、次のような伝説が紹介されています。

 奈良時代の作とされるこの梵鐘(当寺初代の梵鐘)は、むかし(承平年間、10世紀前半)、俵藤太秀郷が三上山の百足退治のお礼に竜宮から持ち帰った鐘を三井寺に寄進したと伝えています。

 その後、山門(延暦寺)との争いで弁慶が奪って比叡山へ引き摺り上げて撞いてみると ”イノー・イノー”(関西弁で帰りたい)と響いたので、弁慶は「そんなに三井寺に帰りたいのか!」と怒って鐘を谷底へ投げ捨ててしまったのです。その時のものと思われる傷痕や破目などが残っています。

 写真でも判るように、表面にはかなり傷や擦り傷らしきものが多数残っており、辨慶が比叡山へ引き摺り上げたかどうかは別として、山法師(延暦寺の僧兵)から相当ひどい扱いを受けたようですね。

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Posted by 嘉穂のフーケモン at 21:53│Comments(0)伝説
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