板橋村あれこれ(19)-東上鉄道記念碑

嘉穂のフーケモン

2006年10月26日 20:23

 
 
 東上鉄道記念碑(下板橋駅構内)

 (旧暦  9月 5日)

 板橋村の東武東上線下板橋駅構内(板橋2丁目4番地)には、東上鉄道の記念碑が建っています。
 通称「東武東上線」と呼ばれる「東上本線」は、豊島村の池袋駅から彩の国大里郡寄居町の寄居駅までを結ぶ75.0kmの東武鉄道株式会社(TOBU Railway CO.,LTD)の鉄道路線です。

 碑文には、「東上鉄道は内田三左衛門ほか10名の有志が、東京渋川(群馬県)間、さらに越後長岡までの敷設を予定して明治36年(1903)12月23日逓信省にて東上鉄道の仮免許申請書を提出、明治41年(1908)に桂太郎内閣により敷設仮免許受けて起工し、千辛万苦百難の末、大正3年(1914)5月竣工なり、開業に至った」と記してあります。
 さらには、「今日の盛況は、内田氏の熾烈な公共心と高潔なる犠牲的精神に職由する」とその功労を讃えています。

 この碑は、もともと東上線池袋駅西口にあったそうですが、デパート建設によりこの地に移転されました。
 なお、東上線の名前に由来は、帝都東京から群馬県渋川を結ぶ計画だったことから、東京と上野国の頭文字を取って「東上」としたそうです。

 大正3年(1914)5月1日、池袋~田面沢間(池袋~下板橋間2.2km、川越~田面沢間2.3kmは軽便鉄道、下板橋~川越間29kmは私設鉄道)が開通し、旅客・貨物運輸営業を開始しました。
 開業に当たり、蒸気機関車3両を鉄道省から、2両を高野登山鉄道から購入し、また、高野登山鉄道から客車13両、貨車35両を購入、東武鉄道からも蒸気機関車を借り入れています。

 その後、第一次世界大戦の影響で物価が急騰して営業費が増加したため、大正9年4月27日、開業線池袋~坂戸町間40.6km、未開業線坂戸町~高崎間62.8kmのすべてをあげて東武鉄道と対等合併し、東武東上鉄道となりました。
 昭和4年(1929)10月1日、池袋駅~川越市駅間の電化が完成し、さらに12月29日には川越市駅~寄居駅間の電化も完成して、「東上本線」は池袋~寄居間が全線電化となり、蒸気機関車が姿を消しています。

 なお、下板橋駅構内には、東上線の距離標の原点がありますが、これは池袋~下板橋間は支線で、当初、東京府東京市小石川区小石川大塚辻町(現・豊島村南大塚)から群馬県群馬郡渋川町に至る鉄道敷設の件が許可されたため、本線は将来下板橋から小石川大塚辻町に延ばすという構想によるものだそうです。

 東上線は現在、和光市駅から東京地下鉄有楽町線(和光市駅~新木場駅)および有楽町新線(小竹向原駅~池袋駅)へ相互直通運転を行っており、飯田橋、有楽町、新木場、および新線池袋方面へ乗り入れています。
 さらには、平成20年(2008)年6月の東京地下鉄13号線延伸開業後は、同線の渋谷駅への乗り入れ、平成24年(2012)からは東京地下鉄13号線を経由して東急東横線、横浜高速鉄道みなとみらい線と相互直通運転を行い、横浜方面へ乗り入れる計画もあるようです。
 
 戦前から板橋村で生活してきた人によれば、かつての東上線は戦後の食糧難の折には近郊への買い出し路線であり、農家の人達が野良着で乗ってくる「百姓路線」と揶揄されていた時代もあったそうで、有楽町線が乗り入れてからは、「有楽町線沿線に住んでいます」とかっこよく云えるようになったそうです。

 そういえば私「嘉穂のフーケモン」も社会での駆け出しの頃は、帝都まで2時間もかかる千葉の京葉工業地帯に住んでおり、小田急沿線に住むことに憧れていた時代もありましたな。はは・・・
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