板橋村あれこれ(17)−千川上水(2)

嘉穂のフーケモン

2006年05月08日 23:49

 

 千川上水分配堰跡(北村滝野川 6-9-1)

 (旧暦  4月11日)

 板橋村あれこれ(16)−千川上水(1)のつづき

  「江戸六上水」の一つである千川上水は、白山御殿(5代将軍徳川綱吉が将軍就任以前の上州館林藩主時代の屋敷で、もと白山神社の跡であったので白山御殿といわれ、また地名をとり小石川御殿ともいわれた)、湯島聖堂(幕府学問所)、上野東叡山寛永寺(徳川家の菩提寺)、浅草御殿(金龍山浅草寺、徳川家の祈願寺)の4ヶ所の御成御殿へ上水を供給する目的で開設されました。

 新座郡上保谷新田地内(西東京市新町)において玉川上水の水を分流し、豊嶋郡関村、多摩郡井草村、豊嶋郡中村、中新井村、長崎村、下板橋宿、滝野川村を経て巣鴨村堀溜(豊島区西巣鴨2丁目39番7号「千川上水公園」内「六義園給水用千川上水沈殿池」)までの「五里二拾四町三十間」(約22.3?)を開鑿して設けた水路(開渠)です。
 
 当時、土木工事で名を馳せていた河村瑞賢(1617〜1699)の設計により、江戸の商人徳兵衛、太兵衛の両人が工事を請け負い、元禄9年(1696)に完成しました。
 徳兵衛、太兵衛の両人は、玉川上水と同様に予算以上の多額の工費を費やし、482両の私財を投じてようやく完成したと伝えられています。
 両人はその功によって名字帯刀を許され、千川の姓を賜り、小石川白山前に邸宅を下され、千川上水役を仰せけられて子孫は永くこの役を務めました。

 千川上水は掘留(分配堰)以降は木樋で通水されて前記4ヶ所の御成御殿へ上水を供給し、更に余水を神田上水以北の小石川、本郷、湯島、外神田、下谷、浅草までの大名、小名、旗本、武家、寺家、町家にいたるまでの飲料水として掛渡しました。その範囲は、江戸府中の3分の1にあたる地域を潤しました。また、他の一流は王子飛鳥山に向かい、音無橋付近で音無川(石神井川)に落ちていました。
 宝永4年(1707)、天水(雨水)のみに依存する田を有する流域の村々から出された用水取り入れの願いは許可され、関、井草、中村、中新井、長崎、滝野川、巣鴨村の7ヵ所に分水を設けて農方用水としても利用され、その供給範囲は20ヵ村、百町歩に及んだと記録されています。

 しかし用水完成から18年後の正徳4年(1714)には、小石川御殿が不要となったので、上水は巣鴨で閉めきりとなりました。ちなみに小石川御殿は綱吉の将軍職就任後は幕府の薬園(小石川薬園)となりましたが、享保7年(1722)、園内に小石川養生所が設けられています。

 現在は「小石川植物園」の名で親しまれている、植物学の教育・研究を目的とする東京大学の教育実習施設の「東京大学大学院理学系研究科附属植物園」となっています。

 また、享保7年(1722)には、千川上水、青山上水、三田上水、本所上水(亀有上水)の4上水が廃止されています。

 その理由としては、
 1. 木樋の維持、管理に多額の費用を要する。
 2. 鑿井の技術が進み、掘抜井戸が掘られるようになった。
 と考えられるようです。


 これ以後、一時的に上水として復活していますが、主として流域20ヵ村の潅漑用水となって明治を迎えています。
 
 (新編武蔵風土記稿巻之九 豐島郡之一)

 千川上水跡  新座郡保谷村より玉川上水を分ち、本郡巣鴨村まで行程六里餘、掘割ありて巣鴨庚申塚邊より本郷湯島、淺草邊に通ぜり、是元禄九年(1696)起立ありし所にして、小石川御殿、湯島聖堂、東叡山、淺草御殿等へ掛りし上水なり、多磨郡仙川村百姓太兵衛?兵衛と云もの、台命に依て此事を奉す、故にかの村名を以て名とし、文字をば千川と改め、事を奉ぜし村民二人の氏に賜り、且江府にて屋敷地を賜ふと、此上水享保七年(1722)廢せられて最寄村々の用水に賜ふ、

 又「事跡合考」に、千川上水は常憲院殿(5代将軍綱吉)の御代、板橋の西練馬の南石神井池より本郷及柳原筋に引れし水流なりしが、文昭院殿(6代将軍家宣)の御代停止せらると見えたり、(石神井池を引しと云は誤にて助水に用ひしものならん)、然るに明和六年(1769)再び此事を起し、安永年中(安永9年;1780)落成して、庚申塚より駒込、本郷湯島、下谷、淺草邊まで掛りしが、便ならざるを以て天明六年(1786)又廢せらる、今多磨郡關前新田の邊にて當郡關村、中村、中荒井村、下板橋宿、瀧野川村等に其堀殘れり、流末は瀧野川にて石神井川に入、其間近郷用水の助水となれり、堀幅四五尺或は廣き所も九尺に過ず。


 もうちょっとつづく
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