板橋村あれこれ(5)-志村一里塚

嘉穂のフーケモン

2004年12月22日 14:14

 

 志村一里塚

 志村一里塚は、板橋村志村1丁目の国道17号線中山道の傍らに、肩身の狭い思いで残されています。 

 天正18年(1590)、小田原の役により北条氏政を攻略して小田原城を落城させ天下統一を成し遂げた豊臣秀吉は、北条氏と縁戚関係にある徳川家康を関東に移封しました。

 家康は、当時葦の生い茂る寒村に過ぎなかった江戸に入国して以来、街道の整備を進めてきましたが、慶長9年(1604)、3男の秀忠に命じて、江戸を中心とした東海道、中山道、甲州街道、日光街道、奥州街道の五街道に榎を植えた一里塚を築かせ、これを全国に広げました。
 江戸日本橋を基点として、1里を36町(4km弱)に統一し、中山道では本郷森川j宿、板橋宿平尾につぎ、志村一里塚は第3番目の塚になります。

 塚は道の両側に向かい合って5間(約9m)四方、高さ1丈(約3m)の定めによって築かれ、旅人にとっては里程や乗物賃支払いの目安になり、またその木陰はかっこうの休所にもなりました。

 一里塚が完全な姿で残るのは稀で、都内では北区の西ヶ原の一里塚と2ヶ所のみであり、交通史上の重要な遺跡として、国および板橋区の史跡に指定・登録された文化財になっています。

 しかし、現在では通行を阻害する障害物として、道路拡張の際に移設するよう地元町会から陳情が出されています。
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